武勇に秀で、薩長から鬼の官兵衛と恐れられた『佐川官兵衛』

佐川官兵衛は1831年9月、会津藩で代々家禄300石を受ける武門名誉な家柄である物頭・佐川幸右衛門直道の子として、若松城下に生まれました。
官兵衛は幼いころより勇敢活発でかつ武術にも秀で、1854年の江戸詰のおり、本郷大火の際に、幕府の火消と刃傷沙汰におよび、2人を斬り捨てたうえ、その他多数の者に傷を負わせてしまいました。当時の火消には、各組に旗本の武芸者が2人ずつ配置されていて、それらを斬った事は重大で、示談にはなったもののただちに謹慎・帰郷を命じられるということもありました。
1862年に会津藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、官兵衛も藩主に従い上洛、そして1864年には藩士の子弟で別撰隊が組織され、その中に官兵衛も選ばれ京都市中の警護に
あたり、このころから「鬼佐川」と呼ばれ恐れられるようになりました。

その後、1867年10月に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、容保も6年間勤め上げた京都守護職を退いて、慶喜とともに大坂に下ったので、官兵衛もこれに従いました。
翌1868年正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発、官兵衛は会津の林砲兵隊と共に奮戦、右眼を負傷するも敵に屈することなく戦いましたが、結局幕府軍は敗北し、官兵衛は容保と共に江戸に退き、そして3月には若松へ帰郷しました。

新政府軍は江戸城を無血開城させたのち、上野戦争・宇都宮攻略等を経て、会津まで攻め込んできました。官兵衛は越後口の防禦を任され、精鋭の朱雀四番隊長として越後に向かい、長岡藩総督・河井継之助と共闘し、新政府軍の参謀である長州藩の山県有朋及び薩摩藩の黒田清隆らによる長岡城奪取の計画を阻止し、さらに長岡南方の朝日山を占領するも、新政府軍によって長岡城は奪われてしまいました。
しかし官兵衛はその後も獅子奮迅の働きを見せ、河井らと共に再度長岡城を奪い返すが、数にものを言わせた新政府軍の攻撃に対して、新発田藩が降伏、それに伴い新潟港も敵に奪われ、長岡城はまたもや再び敵の手に落ちました。
その後、容保に呼び戻され会津に引き上げた官兵衛は若年寄に任命され若松城の守りにあたることとなり、間もなく家老に抜擢されましたが、このとき若松城はすでに新政府軍に囲まれており、官兵衛含む会津藩は善戦したものの、ついに9月26日容保は降伏を決意し会津戦争は終結を迎えました。

官兵衛は会津藩士らとともに、下北半島へ追放され、謹慎生活を送っていましたが、1873年薩摩の西郷が唱えた征韓論が否決されると、諸国の不平士族の動きが活発になり、世間は騒然としてきました。
そんな中、川路大警視は巡査を旧会津藩士の中から募集を掛け、それに対して官兵衛は態度を決めかねていましたが、再三にわたっての説得や官兵衛の子弟からの要望もあり、遂に意を決して東京守護巡査になりました。

1877年鹿児島にて西南戦争が起きると、政府は農民主体の官軍では心もとないと考え、麹町の警察署長だった官兵衛に西南戦争へ参戦するよう命じました。官兵衛は遠征軍総督警
視の補佐として巡査隊を率いて現地入り、状況を分析した結果、すぐにでも進撃するべきとの決断を下し、7時間にわたる死闘を展開し、最後は壮烈なる戦死を遂げました。
このときの官兵衛は「佐川官兵衛」と銘うった政宗の刀を携え、警視庁の記章に「勝軍」の二字を書いた指揮旗のみを持ち、他の品物は一切身に着けず死を覚悟した進撃であったと伝えられています。

官軍に抗する桑名藩雷神隊の隊長をつとめた『立見尚文』

立見尚文は1845年7月19日、桑名藩士である町田伝太夫の三男として生まれ、1849年に立見家に養子として迎えられました。
藩校・立教館に入学すると12歳で素読に合格、剣術や馬術、舞いにも秀でていたため、将来を嘱望されていたそうです。
1861年には桑名藩主・松平定敬の小姓になって江戸へ、そして1861年には定敬が幕府より京都所司代を拝命すると、立見は定敬に従って上洛し、幕末の京都を体感しました。
また幕府による第1次長州戦争の際には軍事視察ということで長州へ出向いています。

その後、15代将軍・徳川慶喜により大政奉還が行われ、慶喜の討薩に端を発した1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が敗北してしまい、慶喜は定敬らを引き連れ江戸へ逃げ帰り、その際桑名藩兵は置き去りにされてしまいました。
なんとか江戸へ戻った立見ら桑名藩兵は、旧幕府軍との協力し、立見の指揮のもと宇都宮城を落とすことに成功、その後定敬が越後の柏崎にいることがわかると、桑名軍を指揮して柏崎へ向かいました。そこで桑名軍は三隊に再編成され、立見は雷神隊の隊長に選出されました。桑名軍は越後・会津・米沢と転戦し、その間の新政府軍との戦いにおいて立見は尋常ではない戦闘指揮の才能を発揮し、新政府軍から「桑名に立見あり」と恐れられる存在になりました。しかし少ない味方に対して敵は大多数であり、撤退を重ねたのち、ここを死に場所と定めた庄内で、庄内藩が降伏したこともあり、桑名軍は3隊総意のもとで降伏するに至りました。

時は流れて1873年4月、ようやく謹慎が解かれた立見は司法省へ入省、その後1877年に起こった西南戦争の際、新政府は在来の軍以外に勅撰旅団を編成することに決め、当時高知裁判所所長代理で徳島支庁に勤務していた立見に白羽の矢を立てました。そして立見は大隊長・少佐で明治陸軍入りし、西南戦争最後の局面において、城山での正面攻撃を任され、その戦いに決着をつける働きをしました。
さらに1894年の日清戦争では松山の第十旅団長として朝鮮半島へ出兵、立見は地形や敵情を冷静に観察し、様々な場面に沿った最適な戦術及び用兵を立てる戦術眼や、相手が根をあげるまで粘り強く戦う意志と度胸など戊辰戦争を戦い抜いた男としての貫録を見せつけ、この時の功績により男爵の爵位を授けられました。

さらに1904年の日露戦争でも、当時青森の第8師団の師団長であった立見は、日露戦争の中でも激戦とされる黒溝台会戦で活躍し、日本の勝利に大きく貢献しました。
当時の政権は薩長閥で占められ、戊辰戦争で賊軍であった桑名出身者に対してはどのようにがんばっても高い評価は与えられませんでした。しかし、日露戦争での輝かしい功績により、立見は大将に昇進することが出来ました。このことは立見自身の実力が並はずれたものであることの証といえます。

そんな立見も1907年3月6日に東京で最後の日を迎えました。その葬儀には、明治天皇から供花料も寄せられ、また長州の山県有朋元帥や薩摩の大山巌元帥も参列し、深く頭をさげたといわれています。

戊辰戦争で無念にも戦場に散った越後の龍こと『河井継之助』

河井継之助は1827年正月元旦、徳川家譜代の名門である長岡藩の中堅上士で、勘定奉行を勤める河井秋紀の長男として生まれました。
性格的には強情で負けず嫌い、剣術や馬術の師匠にも口答えをするくらい激しい気性の持ち主でした。
16歳で元服、この頃はよく勉強して、読書は多読よりも精読を好んで行いました。また17歳で「輔国」を誓い、長岡藩を背負って立つ決意をしたそうです。そのときの言葉が残っており「天下に無くてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ」というもので、特に後半の部分が、河井継之助らしいところといわれています。

24歳で梛野嘉兵衛の妹すがを妻に迎えますが、持ち前の向学心が捨てきれず、26歳で単身江戸へ出て、蘭学や西洋砲術の大家であった佐久間象山の門人となりました。
その後は西国へ向かい、備中松山藩の陽明学者である、山田方谷の門をたたきました。
山田方谷は藩の危機的財政を救った改革者であり、継之助はここで半年の間、様々なことを学び、1860年に長岡へ帰郷しました。

そのような中ペリーの黒船が来航し、国内で尊皇攘夷運動が激化していく中、長岡藩主の牧野忠恭は幕府より京都所司代、さらには老中職に就くよう命じられました。しかし継之助はその依命を受けたなら、長岡藩は幕府もろとも崩壊してしまうと忠恭に対し辞任を求めたため、機嫌を損ねた忠恭により、辞職させられてしまいました。
しかし1865年、忠恭からの抜擢により再度外様吟味役に就任すると、すぐさま庄屋と村民の争いである山中騒動を解決し、さらに藩の組織ならびに財政の改革や、慣習化した賄賂や賭博の禁止、そして遊郭についても廃止を決めました。また農民を救うために武士の不当な取り立てを罰し、また商業発展を目指して河税や株の特権を解消、藩士の禄高是正や門閥解体を行うなど、政治手腕を存分に発揮し次々と昇進していきました。

しかし15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、戊辰戦争が勃発、長岡藩を率いる継之助は「武装中立」を目指していました。それは諸藩が新政府・旧幕府とに分かれ、戦っている中で、他藩の力に頼ることなく、自藩の力のみで生き、その力を持ってこの戦いを収めるという考え方です。その考えを実現するため、ミニエー銃や手動機関銃であるガトリング砲を購入、そして藩内に兵学所をつくってフランス式兵制を取り入れるなど長岡藩の近代武装化を成し遂げました。

ただ、武装中立という、その先進的な考えは新政府軍に受け入れて貰えず、旧幕府側と共に新政府軍との戦闘が開始され、軍事総督に任命された継之助は、目の覚めるような戦いっぷりで、一時は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲攻撃によって奪還することに成功するものの、、次第に増派される新政府軍の兵力には、いかんせん太刀打ちすることが出来ず、再度の落城により長岡軍は会津へと向かうことになりました。
戦で深手を負った継之助も、再起をかけて会津を目指しましたが、1868年8月16日会津塩沢で42歳の生涯を終えました。

白皙の天才的美剣士、新撰組の一番隊隊長『沖田総司』

沖田総司は1844年、奥州白河藩士・沖田勝次郎の長男として白河藩江戸の下屋敷で生まれました。沖田が2歳のときに父が死んだため、11歳年上の長姉が婿を取り沖田の家を継ぎましたが、沖田家は父の死とともに白河藩を離れてしまったため収入もなく、沖田は厄介者の身となっていました。
1850年沖田が9歳のとき、江戸市ヶ谷にあった近藤勇の試衛館に住み込みの内弟子として入門します。これが沖田にとって人生の大きな転機になりました。

そんな沖田の性格は、子供が好きでよく冗談を言って笑っているような明るい性格だったようですが、一方では人への剣の教え方が乱暴だとか、すぐ怒ったりするといったような短気な一面もみられたそうです。また沖田は剣の腕は確かに凄かったようで、19才にして免許皆伝を与えられ、試衛館の塾頭にまで上り詰めました。そんな沖田を永倉新八は「土方歳三にしても、北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助にしても、総司にかかると子供同然にあしらわれた。本気になったら師匠の勇でさえやられただろう」と言っています。

その後、1863年2月、近藤勇が幕府14代将軍・徳川家茂の上洛に伴う警護として浪士隊の募集を行うと近藤は試衛館の門弟らを率いて加わり、総司も共に出立しました。
京へ上って1年余りが過ぎた1864年6月5日、京の町を火の海にする計画を持った長州系尊王攘夷派の志士20名ほどが集結していた池田屋を、新撰組が捕縛のために急襲するという、世にいう池田屋事件が起きました。その際尊攘派の志士7名が即死、また事件後に死亡したものを含め23名を新撰組は捕縛したのです。
池田屋での斬り合いの資料は残っていませんが、戦闘後の様子や当事者以外が残した資料などからこの戦いで沖田が鮮やかな剣技を使ったことは否めない事実といえます。
特に沖田の突き技は誰にもまねが出来ないほどのもので、一瞬のうちに3度の突きを繰りだす、いわゆる「沖田の三段突き」と呼ばれました。

しかしすでに肺結核を患っていた沖田は、池田屋事件の最中に喀血、そして昏倒してしまいました。その後1865年に新撰組の職制が新しくなり、沖田は一番隊組長に抜擢されましたが、病のせいもあり活躍の機会がめっきり少なくなったそうです。
そして1868年に勃発した鳥羽・伏見の戦いに沖田は参加せず、敗北した幕府軍や近藤らと共に江戸へ撤退し、そのまま千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の納屋を改造した部屋で病の床に就きました。

沖田はその死に際して、いくつかエピソードを残しています。
同年4月25日、近藤が板橋で斬首されましたが、沖田には体に障るとしてその死は教えて貰えず、沖田は日々「近藤先生はどうしているでしょうね。便りはきませんか」と繰り返して聞いていたそうです。
また5月には、病床から見ることが出来る庭の片隅にいる黒猫が目に入り、沖田はどういうつもりなのか、刀を手に取って起き上がり、猫の背後から近づいてその猫を斬ろうしましたが、もう少しのところで、付き添いの老婆に「ああ、婆さん斬れないよ」とつぶやいてあきらめたということです。そして5月30日、ついに帰らぬ人となりました。
享年27歳と早すぎた死ではありましたが、新撰組の一員として、近藤や土方と共に剣を振るえた沖田は幸せだったのではないでしょうか。

厳しい局中法度で新撰組の鬼の副長と呼ばれた『土方歳三』

土方歳三は1835年5月31日、武蔵国多摩郡石田村で古くからの豪農である土方家の 6人姉妹の末っ子として生まれました。しかし父は出生前、母も6歳の時に亡くなったため、伯父夫婦に育てられています。
1846年11歳の歳三は、江戸にある伊藤松坂屋に奉公に出されたが、番頭と喧嘩をして、9里ある夜道を、1人で石田村まで逃げ帰り、1852年17歳のときには再び大伝馬町の呉服屋に奉公に出ましたが、奉公先の女中と恋愛沙汰をおこして暇を出されました。

その後は実家の「石田散薬」を売りながら、各地の剣道道場に出向き、そこで試合を挑んで修行を積んでいましたが、後に新撰組の井上源三郎の兄の勧めで、天然理心流の試衛館入門し、ここで近藤勇や沖田総司らと運命的な出会いを果たしました。
1863年2月に運命の転機が訪れます。14代将軍・徳川家茂の上洛に伴う警護のため募集された浪士組に参加し、近藤勇らと共に上洛することになりました。

そして、浪士組は京において紆余曲折の末、会津藩お預かりの新撰組となり、局長の近藤のもと、副長に就任しその右腕として権力を握りました。また土方は組織造りが上手く、実質的な指揮・命令はほとんども土方が発していました。
土方を語る上でのエピソードとして、土方は厳しい局中法度を制定し、もし隊士が背いた場合は、それが山南敬助のような幹部でも容赦はせず切腹を命じました、また不逞浪士に対しては、他の隊士が震えあがるほどの苛酷な拷問を行うなど、非情な人物として怖がられていたそうです。
その一方、剣術稽古においてはいつも胴を着け、汗を流して指導をしていたそうで、晩年になると若い隊士を度々食事に連れだしたり、また相談にのってやることもしばしばだったといわれています。

さてそうした中、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を表明、その後1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発した際には銃撃により負傷した近藤勇に替わって指揮をとるものの敗戦し、新選組は幕府軍と共に大坂から江戸へと戻って行きました。
3月に甲陽鎮撫隊として甲州に向かうも敗れてしまい、長年共に戦ってきた永倉新八や原田左之助らと別れ、近藤と共に下総・流山で新撰組の再起を図ろうとしましたが、新政府軍に包囲され、近藤は投降、一方で土方は隊士達を連れて流山を脱出し、隊を斎藤一に託し、自らは江戸へ戻って、近藤の助命嘆願のため走り回るが、江戸城が無血開城となり、やむなく旧幕府軍に合流し、島田魁ら数人の新撰組隊士を引き連れて宇都宮そして会津へと転戦していきました。

その後の函館戦争において、北海道に上陸した幕府軍は大鳥圭介隊と土方隊に分かれて箱館をめざし五稜郭を無血開城させました。続いて松前城を攻略するなど順調に戦闘を進めていきましたが、ついに新政府軍も北海道へ上陸し、幕府軍に対する総攻撃が始まり、幕府軍の敗戦が濃厚になってきた1869年5月11日、土方は一人で敵地に飛び込み、腹部に銃弾を受けて戦死しました。35歳の若さでした。
土方は残存する写真でもわかりますが、八木家の子孫から次のような言い伝えが残っています。「土方は役者のような男だと父がよく言いました。真っ黒い髪で、これがふさふさとしていて、眼がパッチリして引き締まった顔でした。むっつりしていてあまりものを言いません。近藤とはひとつ違いだとの事ですが、3つ4つは若く見えました。」(八木為三郎老人の談)

幕末維新期、京都守護職傘下の新撰組局長『近藤勇』

1834年10月9日、近藤勇は武州多摩郡上石原の豪農・宮川久次郎の三男として生まれました。幼いころは村の餓鬼大将で、仲間たちからの信頼も厚く、生まれ持っての将器を持ち合わせていたといわれています。
多摩一帯は天領(幕府直轄領)で、土地のものは武張ったことを好む気質があり、自警の意味からも剣術が盛んでした。ある夜、宮川家に強盗が押し入り、兄たちが退治しようとしたところ、近藤だけは「賊は押し入ったときは気が立っているので手強い、しかし逃げる時は気が緩むので、その時に退治しよう」と冷静に言いはなち、実際に兄弟で見事に賊を退治しました。この一事が天然理心流の三代目である近藤周助の耳に届き、1849年に近藤周助の養子に迎えられ、試衛館の道場主となりました。
その近藤の人柄と、「気組」で敵を制する天然理心流の剣技にひかれ、天然理心流の門人たちだけでなく、他の流派を学んだ多くの剣客たちが食客として道場に居つくようになりました。

その後1863年、14代幕府・徳川家茂が上洛した際の警護の名目で募った浪士隊に加盟し江戸を出発。京に着いたものの清河八郎から帰府の指示が出るが、これには従わず京へ残留し、会津藩の御預となって壬生浪士組を結成しました。
8.18の政変にも出陣し、武家伝奏より「新選組」の名を授かり、ここに新撰組が誕生しました。当初、新撰組は近藤勇・芹沢鴨・新見錦の三局長体制でしたが、芹沢鴨及び新見錦を粛正し、近藤勇が唯一の局長になったところから新選組は本格的に始動、その目指すところは尽忠報国・佐幕にあっての尊皇攘夷の魁となる事、であったことから、市中見回りによる治安維持のみの現況には決して満足はしていませんでした。

そんな中、京を追われた長州藩士を含む不逞浪士たちが祇園祭に乗じて京都に放火し、要人を暗殺するという恐るべき計画の情報をつかんだ近藤は、1864年6月5日、三条小橋の池田屋へ自らを含む小人数で斬り込みを掛け、賊を一網打尽にする活躍を見せました。この一夜により新撰組は最強の剣客集団として京内外に勇名を響かせました。
その後、京都においての近藤を含む新撰組の存在は次第に重くなっていき、1867年新撰組の隊士たちは正式に幕府お召し抱えの直参となったのです。そうして近藤は薩摩・伊予・土佐・越前の四候会義にも同席し、「親藩たる以上は、たとえ幕府に非があろうともこれを庇護すべきなのに、外藩に雷同するがごときは不可解なり」と越前の藩主・松平春嶽を大いに批判するまでとなりました。

同じ年、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還があり、その後に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、旧幕府軍は朝敵の汚名をきせられてしまったまま江戸まで撤退しました。新政府の江戸進撃に際し、幕府は新撰組に徳川古来の重要な拠点である甲府城鎮撫を指示しましたが、一説には新撰組が江戸にいると、新政府軍との交渉の邪魔になるため、江戸から遠ざけたとも言われています。
さて甲州に向かった新撰組は勝沼での戦に敗れましたが、再起をかけて会津へ出発する前に将軍である慶喜の処遇を見届けようと関東に留まり、下総流山に陣を構えましたが、ここで敵襲に遭ってしまいました。近藤は他の隊士を逃がすために自ら新政府軍の軍門に降り、1868年4月25日武士としての切腹を許されぬまま、板橋平尾一里塚にて斬首され、その首は京の三条河原に晒されました。しかしその首の行方は今もわかっていません。

会津藩主、京都を警備する京都守護職をつとめた『松平容保』

1836年2月15日、江戸四谷にある尾張徳川家の分家の高須藩邸で藩主・松平義建の六男として松平容保は生まれました。
1846年12歳になった容保は会津藩・第8代藩主の容敬の養子となりましたが、容敬自身も高須藩から迎えられた養子で、容保の父とは異母兄弟であり、容保とは伯父と・甥の関係にあたりました。ちなみに容保の兄弟では長男と四男は早逝していましたが、他の兄弟はいずれも逸材で、次男は尾張徳川家、三男は石見国の浜田松平家を、五男は一橋家、七男は桑名松平家、八男は生家である高須松平藩をそれぞれ継いでいます。

さて容保は、幕府に養子縁組が認められると、江戸の和田倉門の会津藩邸に入り、最初に容敬自身から保科正之が作った会津藩の「家訓十五ヵ条」を教え込まれました。
1851年に容保は会津入りし、翌年伯父の容敬が病死に伴い、容保は18歳で第9代会津藩主の座に就くことになりました。
そして1860年に幕府の大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変の際には、水戸藩の討伐に対して反対の立場をとり、幕府と水戸藩との間を取り持った功績が認められ近左衛権中将の任命を受けています。

その後、不安定な政局の中、1862年9月24日に京都守護職に就任しました。これには当初、容保をはじめ家老の西郷頼母ら家臣ともども就任に断わりを入れていましたが、政事総裁職・松平春嶽から「家訓十五箇条」の第一条にある「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」という文言を引き合いに出され、押し切られる形で就任を決めました。
京都守護職に就任となった容保は、同年12月に会津藩兵を率いて自ら上洛し、孝明天皇に拝謁・朝廷との交渉にあたりました。その一方で配下の新撰組他を使って、この時期に上洛してきた14代将軍・徳川家茂の警護や不定浪人の取り締まりなど京都市内の治安維持にも力を注ぎました。

会津藩は幕府が主張していた公武合体派の一翼を担い、反幕府的な活動をする長州藩をはじめとした尊王攘夷派と敵対し、8.18の政変では京都での長州藩の勢力の排除に乗り出し、その働き対して孝明天皇から容保に対して宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)が内密に下賜されました。それらを容保は小さな竹筒に入れて首からかけ、死ぬまで手放すことはありませんでした。

1867年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、鳥羽・伏見の戦いが勃発、その戦いに敗れた将軍・慶喜に弟の桑名藩主・松平定敬らとともに従い、幕府軍艦にて江戸へ下りました。そして慶喜が新政府に対し恭順を表明し、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立、会津藩においても同様の対立が起こりましたが、容保は会津へ帰国し、養子の喜徳へ家督を譲って謹慎しました。

日本の近代化構想の実現に奔走した、明治の父『小栗忠順』

小栗忠順は1827年、禄高2,500石の旗本・小栗忠高の子として江戸で生まれました。幼いころは頭があまり良くなく悪戯が好きな悪ガキという印象を持たれていたそうですが、成長するに従って文武に才能を発揮していきました。
8歳のころから、小栗家の屋敷内にある安積艮斎の私塾「見山楼」に入門し、そこで栗本鋤雲と知り合うことになります。また武術について、剣術は島田虎之助に師事し、その後藤川整斎の門下となって直心影流免許皆伝を得ました。また砲術は田付主計に、そして柔術は窪田助太郎に師事していました。

1843年、17歳になり登城した小栗は、文武の才能を認められ、若くして両御番に抜擢されました。しかしながら率直な物言いを周りから疎まれ、何度も官職を変えられたそうです。
1853年、ペリーの黒船が来航すると、黒船に対する詰警備役となるが、戦国時代のころから造船に関して進歩がない日本ではアメリカと同等に交渉することができず、開国の要求を受け入れざるを得ない状況を目の当たりにしたことにより、外国と積極的通商を行い、造船所を作るという発想を持つことになりました。

1855年に父・忠高が死去、家督を相続することになったのち、1860年に遣米使節の目付として渡米、ワシントン海軍工廠を見学した際にはアメリカと日本との製鉄並びに金属の加工技術の差に驚き、記念にネジを持ち帰りました。
帰国の後、遣米使節の功によって外国奉行に就任、1861年にロシア軍艦対馬占領事件が起こった際、事件の処理に当たるも、幕府の対処に対して限界を感じ、江戸に戻って老中に自身の意見を提言するが受け入れてもらえず辞任に至る。

また1862年には、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しに尽力しました。その間、駐日フランス公使と交際し、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた小栗は1863年、幕府に対し製鉄所建設案を提出、幕閣から反対を受けたが、将軍・徳川家茂に認められ1865年11月15日、横須賀製鉄所の建設が開始されました。
小栗は横須賀製鉄所の代表にレオンス・ヴェルニーを任命し、職務分掌や雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制などの経営学や人事労務管理の基礎を日本に導入しました。
さらに1862年12月に銃砲製造の責任者になると、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄の関口製造所に統合し、組織の合理化を図り、またベルギーから弾薬用火薬製造機械を購入して滝野川反射炉の一角に設置することにより日本初の西洋式火薬工場を建設しました。
併せて小栗は更なる軍事力強化を推進し、幕府陸軍をフランスから軍事顧問団を招きフランス式に変更、さらに大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品をフランスに発注しました。

一方、経済面では、1866年に関税率改訂の交渉にあたり、三都商人と連携して日本全国の商品流通を掌握しようとしました。これが後の商社設立に繋がっていきました。
そんな中1867年11月9日に将軍・徳川慶喜が大政奉還を表明、1868年1月には鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まりました。初戦に敗れた慶喜は江戸へ帰還、その後江戸城で開かれた評定では、小栗をはじめ榎本武揚、大鳥圭介らは徹底抗戦を主張しましたが、慶喜は反対し恭順してしまいました。
1868年1月15日江戸城にて御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡された小栗は上野国群馬郡権田村に移り住みましたが、1868年東山道軍の命を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により捕縛され、斬首され42歳の生涯を閉じました。

幕臣であるが広い視野を持ち、江戸無血開城に貢献した『勝海舟』

勝海舟は1823年3月12日幕府旗本・勝小吉の長男として生まれました。
10代の頃から直心影流剣術・島田虎之助に入門し剣術・禅を学びの免許皆伝を与えられており、兵学も若山勿堂から山鹿流を学んでいます。16歳の時に蘭学者・佐久間象山と知り合い、その象山から勧めもあって西洋兵学を修め、蘭学と兵学の私塾を開きました。
1853年ペリーの黒船艦隊が来航し開国を要求されると、老中首座・阿部正弘はその決断を幕府のみで決めることはせず、海防に関する意見を幕臣だけでなく諸大名から町人に至るまで広く募集し、勝も海防意見書を提出、その意見書が阿部正弘の目にとまり、その結果幕府海防掛の大久保忠寛の知遇を得たことにより念願であった幕府内での役職を得ることになりました。

その後、長崎海軍伝習所に入門、伝習所ではオランダ語がよくできた勝は教監も兼ね、長崎では約5年間過ごしました。この時期に薩摩藩主・島津斉彬と出会い、後の勝の行動に大きな影響を与えられたそうです。
1860年には幕府の遣米使節の補充員として咸臨丸にて太平洋を横断、アメリカ・サンフランシスコへの渡航へも参加しています。
帰国後は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範の役職を与えられていましたが、1862年に海軍に復帰、軍艦操練所頭取から軍艦奉行へと就任し、神戸に海軍塾を作って、薩摩や土佐の脱藩者らを塾生として迎え入れ、そしてさらに神戸海軍操練所も設立しました。
勝としては幕府の海軍ではなく「日本の海軍」の建設を目指していましたが、保守派の人間の差し金により軍艦奉行を罷免、約2年の蟄居生活を送ることになりました。勝はこの蟄居生活の時期に西郷隆盛とも初めて会っています。

1866年軍艦奉行に復帰した勝は、徳川慶喜から第二次長州征伐の停戦交渉を任され、単身宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功しましたが、慶喜が朝廷から停戦の勅命を引き出し、はしごを外された形になった勝は憤慨、御役御免を願い出て江戸に帰りました。
大政奉還後の1868年、新政府軍の東征が始まると、幕府は勝を呼び戻し陸軍総裁から軍事総裁を命じ、全権を委任された勝は幕府方の代表となりました。江戸へ迫った新政府軍・西郷隆盛との交渉の末、江戸城の無血開城を取りまとめ、江戸を戦火から救いました。
明治維新後も旧幕臣の重要な役職を歴任し、1873年には、勅使として鹿児島の島津久光を東京へ上京させ、また混乱期に意見が対立していた慶喜を明治政府に赦免させるなど精力的に活動しました。

晩年はほとんどの時期を赤坂氷川で過ごしていた勝は、政府から依頼されて「吹塵録」、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などを執筆しました。
しかしながら勝のその独特な談話、記述を理解できなかった者たちから「氷川の大法螺吹き」となじられたり、また身内の問題などから孤独な生活を送っていたそうです。
そして1899年1月19日、風呂上がりにブランデーを飲んでいたところ、脳溢血により意識不明になって死去。最期の言葉は勝らしい「コレデオシマイ」でした。

維新後、司法卿となり司法制度の近代化に努めた『江藤新平』

江藤新平は1834年、佐賀藩の下級武士の長男として生れました。家が貧しいながらも16歳で藩校弘道館に入学し、必死に勉強しました。
弘道館教授で儒学・国学者を教える枝吉神陽が「義祭同盟」(尊王論を普及させるために作った私塾で、よく長州の松下村塾と比較されます)を結成し、そこに江藤は大隈重信や副島種臣、大木喬任、島義勇らとともに参加しました。

江藤は、下級武士の自分が志を遂げるためには、このまま藩内にいても現状を打破できないと脱藩を決意、そして京都へ向かい、長州藩の桂小五郎や伊藤博文、公卿の姉小路公知らと交流を図ると同時に京都の情勢に関しても調べ上げました。
その間2ヶ月程で、その後は佐賀へ帰国、本当であれば脱藩=死罪になるところ、前藩主・鍋島直正の温情により死罪を免れ、代わりに無期限の謹慎となりましたが、大政奉還によって情勢が変わったため、赦免されました。

そして、新政府が誕生すると、副島種臣とともに上京の命を受け、その時から政治の表舞台での江藤の飛躍が始まりました。そして、江戸の無血開城から上野戦争、さらに戊辰戦争においても活躍し、1869年には維新の功によって賞典禄 100石を賜りました。
明治維新後、政府設置の江戸鎮台の長官に属する6人の判事のうちの1人として会計局判事の任命を受け、民政、会計並びに財政や都市問題などの担当となりました。ちなみに江戸の呼称が東京になるのは江藤の献言によるものです。
その後江藤は、佐賀に一時帰郷し、準家老職に就き、藩政改革に乗り出しますが、改めて政府乞われて、東京へ戻り新国家の根本となる民法や憲法といった法令の整備に関して尽力しました。
さらに1872年には、初代司法卿に就き、参議などの多くの役職を歴任し、学制の基礎固め、四民平等や警察制度整備など近代化政策の推進を図り、特に司法制度の整備には力を入れました。

しかし、1873年10月朝鮮出兵をめぐる征韓論問題で西郷隆盛が下野すると、板垣退助や後藤象二郎らとともに下野し、そして佐賀へ帰郷しました。
帰郷後、1874年2月佐賀征韓党の首領として推され、島義勇らの憂国党と共に反乱を起こし、同年4月に斬首、その首は梟首されました。 
征韓論で対立した江藤新平との確執で知られる大久保利通は、自らの日記に「江藤醜態 笑止なり」と罵倒ともとれる言葉を江藤に対して残していますが、その大久保も4年後に不平士族によって暗殺されました。  

さてここで江藤に関する逸話をご紹介します。江藤が考えた意見書は非常に画期的でかつ民主的といわれています。その例として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という一文があります。また外交についての意見書では積極的な対外への進出を主張しているようで、1871年3月に岩倉具視へ提出したものには清をロシアとともに攻めて占領し、その後機会を見つけてロシアを追い出し、日本の都をそこに移すといった内容のことが書かれていたそうです。
また江藤が処刑された後、佐賀において「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」といわれていたそうで、参拝客が非常に多かったようです。そのため、佐賀県庁がわざわざ柵を設けて参拝を禁止したといわれています。そのためみんな仕方なく夜間に参拝していたとのことです。