幕末維新期、京都守護職傘下の新撰組局長『近藤勇』

1834年10月9日、近藤勇は武州多摩郡上石原の豪農・宮川久次郎の三男として生まれました。幼いころは村の餓鬼大将で、仲間たちからの信頼も厚く、生まれ持っての将器を持ち合わせていたといわれています。
多摩一帯は天領(幕府直轄領)で、土地のものは武張ったことを好む気質があり、自警の意味からも剣術が盛んでした。ある夜、宮川家に強盗が押し入り、兄たちが退治しようとしたところ、近藤だけは「賊は押し入ったときは気が立っているので手強い、しかし逃げる時は気が緩むので、その時に退治しよう」と冷静に言いはなち、実際に兄弟で見事に賊を退治しました。この一事が天然理心流の三代目である近藤周助の耳に届き、1849年に近藤周助の養子に迎えられ、試衛館の道場主となりました。
その近藤の人柄と、「気組」で敵を制する天然理心流の剣技にひかれ、天然理心流の門人たちだけでなく、他の流派を学んだ多くの剣客たちが食客として道場に居つくようになりました。

その後1863年、14代幕府・徳川家茂が上洛した際の警護の名目で募った浪士隊に加盟し江戸を出発。京に着いたものの清河八郎から帰府の指示が出るが、これには従わず京へ残留し、会津藩の御預となって壬生浪士組を結成しました。
8.18の政変にも出陣し、武家伝奏より「新選組」の名を授かり、ここに新撰組が誕生しました。当初、新撰組は近藤勇・芹沢鴨・新見錦の三局長体制でしたが、芹沢鴨及び新見錦を粛正し、近藤勇が唯一の局長になったところから新選組は本格的に始動、その目指すところは尽忠報国・佐幕にあっての尊皇攘夷の魁となる事、であったことから、市中見回りによる治安維持のみの現況には決して満足はしていませんでした。

そんな中、京を追われた長州藩士を含む不逞浪士たちが祇園祭に乗じて京都に放火し、要人を暗殺するという恐るべき計画の情報をつかんだ近藤は、1864年6月5日、三条小橋の池田屋へ自らを含む小人数で斬り込みを掛け、賊を一網打尽にする活躍を見せました。この一夜により新撰組は最強の剣客集団として京内外に勇名を響かせました。
その後、京都においての近藤を含む新撰組の存在は次第に重くなっていき、1867年新撰組の隊士たちは正式に幕府お召し抱えの直参となったのです。そうして近藤は薩摩・伊予・土佐・越前の四候会義にも同席し、「親藩たる以上は、たとえ幕府に非があろうともこれを庇護すべきなのに、外藩に雷同するがごときは不可解なり」と越前の藩主・松平春嶽を大いに批判するまでとなりました。

同じ年、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還があり、その後に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、旧幕府軍は朝敵の汚名をきせられてしまったまま江戸まで撤退しました。新政府の江戸進撃に際し、幕府は新撰組に徳川古来の重要な拠点である甲府城鎮撫を指示しましたが、一説には新撰組が江戸にいると、新政府軍との交渉の邪魔になるため、江戸から遠ざけたとも言われています。
さて甲州に向かった新撰組は勝沼での戦に敗れましたが、再起をかけて会津へ出発する前に将軍である慶喜の処遇を見届けようと関東に留まり、下総流山に陣を構えましたが、ここで敵襲に遭ってしまいました。近藤は他の隊士を逃がすために自ら新政府軍の軍門に降り、1868年4月25日武士としての切腹を許されぬまま、板橋平尾一里塚にて斬首され、その首は京の三条河原に晒されました。しかしその首の行方は今もわかっていません。