幕末に多くの人材を輩出する松下村塾を主宰した『吉田松陰』

明治維新のために活躍する多くの人物を輩出した松下村塾の主宰者である吉田松陰。ここでは教育者として不世出である吉田松陰という人物の生い立ちをご説明します。

吉田松陰は1830年に長州藩士・杉百合之助の次男として生を受けました。松陰は5歳で叔父である吉田大助の養子に迎えられ、家業である「山鹿流兵学師範」を継ぎ、幼くして藩校である明倫館の教授見習いになるほど優秀な人物であり、さらにはすでに11歳にして長州藩主の前で講義をしていたそうです。
松陰は、兵学者としての学問に精を出しながらも、他方では江戸や長崎などの諸国を巡り、また江戸への留学などによって、時代の動きを感じとると共に日本の現状を憂い、どうすれば日本を欧米列国に伍する国家にすることができるのかを考えていました。

そんな暮らしをしている中、1853年ペリー率いる黒船が来航、当時の日本は鎖国をしており、この黒船は平和な世の中に大きな衝撃与えることになりました。松陰は、これを西洋文明を学ぶチャンスだと考え、見つかったら死罪になる危険を顧みず、門弟である金子重之助と共に伊豆の下田沖に停泊中の戦艦に密航し、アメリカへ行こうとしました。
しかしながら、松陰たちは乗船を拒否されました。というのも、ペリーは死を恐れず自身の信念に沿った二人の行動に心を打たれながらも、幕府との交渉で障害になることを考えたからです。

結果、松陰らの身柄は幕府に引き渡され、牢獄に入れられることになりました。その後、長州の野山獄に移されましたが、獄中にあっても松陰の志はくじけることがなく、1ヶ月間に平均40~50冊の本を読み、そして他の囚人へ孟子の講義を行うなど精力的に過ごしました。また一時期、野山獄を出て実家の杉家に謹慎していた際、近隣の若者たちを集めて教育を行いました。これが松下村塾といわれるものです。
松下村塾では、塾生たちに読書をすすめる一方、行動することに重きを置くことを教え、さらにそれぞれの個性を重視する指導を行いました。松陰は多くの人から慕われましたが、「学術不純にして人心をまどわす」という理由から再度野山獄、そして江戸へと送られてしまいました。そのため松下村塾は、教師が不在となり、2年余で閉鎖することになってしまいましたが、松陰は獄中においても、塾生に手紙をもって志を継承するよう説き続けました。
そして1859年、ついに29歳の志なかばにして刑場のつゆと消えてしまいました。
その生涯は一貫して行動を重視し、困難があってもへこたれない不屈の精神を持ったものでした。
彼の考えは、松下村塾での教育や遺書である留魂録を通 じて、塾生たちに引き継がれ、高杉晋作や久坂玄瑞など幕末に活躍する人物たちに大きな影響を与えました。

ここで吉田松陰の逸話をひとつ、松下村塾の門下生であった高杉晋作と久坂玄瑞は幼なじみだった。しかしながら、久坂玄瑞が秀才であったのに対し、晋作は非凡な才能を持ちながらも学問が未熟でかつひとりよがりだった。松陰はその晋作の欠点を見抜いて、彼のライバルである久坂を事あるごとに褒めることにより、晋作の負けず嫌いの心をあおって学業に力を入れさせ、その才能を開花させることに成功した。これは褒めて伸びる人間と、逆にライバル心を刺激して伸びる人間とを松陰はその優れた眼で見抜いていたということです。