白皙の天才的美剣士、新撰組の一番隊隊長『沖田総司』

沖田総司は1844年、奥州白河藩士・沖田勝次郎の長男として白河藩江戸の下屋敷で生まれました。沖田が2歳のときに父が死んだため、11歳年上の長姉が婿を取り沖田の家を継ぎましたが、沖田家は父の死とともに白河藩を離れてしまったため収入もなく、沖田は厄介者の身となっていました。
1850年沖田が9歳のとき、江戸市ヶ谷にあった近藤勇の試衛館に住み込みの内弟子として入門します。これが沖田にとって人生の大きな転機になりました。

そんな沖田の性格は、子供が好きでよく冗談を言って笑っているような明るい性格だったようですが、一方では人への剣の教え方が乱暴だとか、すぐ怒ったりするといったような短気な一面もみられたそうです。また沖田は剣の腕は確かに凄かったようで、19才にして免許皆伝を与えられ、試衛館の塾頭にまで上り詰めました。そんな沖田を永倉新八は「土方歳三にしても、北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助にしても、総司にかかると子供同然にあしらわれた。本気になったら師匠の勇でさえやられただろう」と言っています。

その後、1863年2月、近藤勇が幕府14代将軍・徳川家茂の上洛に伴う警護として浪士隊の募集を行うと近藤は試衛館の門弟らを率いて加わり、総司も共に出立しました。
京へ上って1年余りが過ぎた1864年6月5日、京の町を火の海にする計画を持った長州系尊王攘夷派の志士20名ほどが集結していた池田屋を、新撰組が捕縛のために急襲するという、世にいう池田屋事件が起きました。その際尊攘派の志士7名が即死、また事件後に死亡したものを含め23名を新撰組は捕縛したのです。
池田屋での斬り合いの資料は残っていませんが、戦闘後の様子や当事者以外が残した資料などからこの戦いで沖田が鮮やかな剣技を使ったことは否めない事実といえます。
特に沖田の突き技は誰にもまねが出来ないほどのもので、一瞬のうちに3度の突きを繰りだす、いわゆる「沖田の三段突き」と呼ばれました。

しかしすでに肺結核を患っていた沖田は、池田屋事件の最中に喀血、そして昏倒してしまいました。その後1865年に新撰組の職制が新しくなり、沖田は一番隊組長に抜擢されましたが、病のせいもあり活躍の機会がめっきり少なくなったそうです。
そして1868年に勃発した鳥羽・伏見の戦いに沖田は参加せず、敗北した幕府軍や近藤らと共に江戸へ撤退し、そのまま千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の納屋を改造した部屋で病の床に就きました。

沖田はその死に際して、いくつかエピソードを残しています。
同年4月25日、近藤が板橋で斬首されましたが、沖田には体に障るとしてその死は教えて貰えず、沖田は日々「近藤先生はどうしているでしょうね。便りはきませんか」と繰り返して聞いていたそうです。
また5月には、病床から見ることが出来る庭の片隅にいる黒猫が目に入り、沖田はどういうつもりなのか、刀を手に取って起き上がり、猫の背後から近づいてその猫を斬ろうしましたが、もう少しのところで、付き添いの老婆に「ああ、婆さん斬れないよ」とつぶやいてあきらめたということです。そして5月30日、ついに帰らぬ人となりました。
享年27歳と早すぎた死ではありましたが、新撰組の一員として、近藤や土方と共に剣を振るえた沖田は幸せだったのではないでしょうか。