戊辰戦争で無念にも戦場に散った越後の龍こと『河井継之助』

河井継之助は1827年正月元旦、徳川家譜代の名門である長岡藩の中堅上士で、勘定奉行を勤める河井秋紀の長男として生まれました。
性格的には強情で負けず嫌い、剣術や馬術の師匠にも口答えをするくらい激しい気性の持ち主でした。
16歳で元服、この頃はよく勉強して、読書は多読よりも精読を好んで行いました。また17歳で「輔国」を誓い、長岡藩を背負って立つ決意をしたそうです。そのときの言葉が残っており「天下に無くてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ」というもので、特に後半の部分が、河井継之助らしいところといわれています。

24歳で梛野嘉兵衛の妹すがを妻に迎えますが、持ち前の向学心が捨てきれず、26歳で単身江戸へ出て、蘭学や西洋砲術の大家であった佐久間象山の門人となりました。
その後は西国へ向かい、備中松山藩の陽明学者である、山田方谷の門をたたきました。
山田方谷は藩の危機的財政を救った改革者であり、継之助はここで半年の間、様々なことを学び、1860年に長岡へ帰郷しました。

そのような中ペリーの黒船が来航し、国内で尊皇攘夷運動が激化していく中、長岡藩主の牧野忠恭は幕府より京都所司代、さらには老中職に就くよう命じられました。しかし継之助はその依命を受けたなら、長岡藩は幕府もろとも崩壊してしまうと忠恭に対し辞任を求めたため、機嫌を損ねた忠恭により、辞職させられてしまいました。
しかし1865年、忠恭からの抜擢により再度外様吟味役に就任すると、すぐさま庄屋と村民の争いである山中騒動を解決し、さらに藩の組織ならびに財政の改革や、慣習化した賄賂や賭博の禁止、そして遊郭についても廃止を決めました。また農民を救うために武士の不当な取り立てを罰し、また商業発展を目指して河税や株の特権を解消、藩士の禄高是正や門閥解体を行うなど、政治手腕を存分に発揮し次々と昇進していきました。

しかし15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、戊辰戦争が勃発、長岡藩を率いる継之助は「武装中立」を目指していました。それは諸藩が新政府・旧幕府とに分かれ、戦っている中で、他藩の力に頼ることなく、自藩の力のみで生き、その力を持ってこの戦いを収めるという考え方です。その考えを実現するため、ミニエー銃や手動機関銃であるガトリング砲を購入、そして藩内に兵学所をつくってフランス式兵制を取り入れるなど長岡藩の近代武装化を成し遂げました。

ただ、武装中立という、その先進的な考えは新政府軍に受け入れて貰えず、旧幕府側と共に新政府軍との戦闘が開始され、軍事総督に任命された継之助は、目の覚めるような戦いっぷりで、一時は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲攻撃によって奪還することに成功するものの、、次第に増派される新政府軍の兵力には、いかんせん太刀打ちすることが出来ず、再度の落城により長岡軍は会津へと向かうことになりました。
戦で深手を負った継之助も、再起をかけて会津を目指しましたが、1868年8月16日会津塩沢で42歳の生涯を終えました。