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討幕・大政奉還に奔走、また薩長同盟にも尽力した『小松帯刀』

1835年10月14日、薩摩喜入の領主・肝付兼善の三男として生まれた小松帯刀は、4歳から学問の才能をあらわし、漢学者の横山安容のもとで儒学の猛勉強を積んでいたが、生来の虚弱な体質のため17歳ごろから病のため床に伏せがちな生活になってしまいました。
しかし、勉強に対する前向きな気持ちは益々高まり、養生のための湯治の場でもその地域の様々な人たちからも知識を吸収するべく努力しました。
また勉学だけでなく、歌道を八田知紀に学び、さらに病気がちではあるものの武術の修練にも精を出し、演武館にて示現流も学んでいました。

1855年の正月になると、21歳で奥小姓・近習番勤めを命じられ、さらに1858年7月に島津斉彬が亡くなり、島津忠義が藩主の座につくと小松は当番頭兼奏者番を拝命し、集成館の管理及び貨幣鋳造に関する職務につくことになりました。
そして1861年には長崎出張を命じられ、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作や破裂弾、水雷砲術学などを学び、鹿児島に戻ったのちに忠義の御前にて電気伝導で水雷を爆発させる実演を行ない、そういった一連の功績により藩主の父である、島津久光の側役に抜擢され、さらに久光体制が確立すると、今度は御改革御内用掛に任命され、藩政の改革に着手しました。また1862年の久光の上洛にも随行し、帰国後ついに家老職にまで登りつめることになりました。

そういった中、イギリスの艦隊との薩英戦争において、さきに研究していた水雷を鹿児島湾に配置するなどの働きを見せ、戦後には集成館の再興や蒸気船機械鉄工所の設置に尽力、一方京都にあっては朝廷や幕府及び諸藩との連絡・交渉の役を担い、参与会議等にも陪席していました。
さらに御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などの諸役を兼務し、藩政を一手に引き受け、大久保らとともに洋学校「開成所」を設置するなどの仕事にも従事しました。

その後、長州との戦である禁門の変では、幕府から出兵要請があったものの、終始消極的な態度を示し、勅命を受けると一転にて薩摩藩兵を率い、幕府側の勝利のために働きました。
また小松は在京中に土佐藩の脱藩浪士・坂本龍馬と昵懇となり、亀山社中設立の援助や龍馬の妻の世話もしていました。さらに長州が朝敵の汚名により表だって動けない際には井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまい、グラバーと引き合わして、その後薩長同盟の交渉にも尽力しました。
そして小松は五代友厚らをイギリスへ密かに留学させ、かつまた英国公使のハリー・パークスを薩摩に招いて、島津久光と引き合わせるなどイギリスと薩摩との友好にも貢献しておいます。

さらに第二次長州征討の際には強力に反対し、1867年の薩土盟約や四侯会議などの諸藩との交渉にも手を砕き、討幕の密勅においても請書に西郷や大久保とともに署名しています。
続いて大政奉還の後には西郷や大久保と共に薩摩に戻り、藩主・島津忠義に兵を引き連れて上洛するよう主張、その献策が通り上洛へ随行するよう指示を受けるが、病のため断念、しかしながら明治維新後は新政府において、総裁局顧問や徴士参与、外国事務掛また外国官副知官事、さらに玄蕃頭などの要職を歴任しています。
1869年に病気により新政府の役職を依願にて退職したあとも、版籍奉還の際には渋る久光を説得し、自らが率先して領地を返上することにより模範を示すなどして範を示すなど、最後まで新政府に協力していましたが、ついに1870年(数え年36歳)に大阪にて天に召されました。

初代内務卿、日本の近代国家への基盤を築いた『大久保利通』

大久保利通は1830年に薩摩藩小姓組・大久保次右衛門利世の長男として生まれました。
1846年、16歳にて藩に出仕しましたが、4年後に藩主島津斉興と、その世子島津斉彬との間に起きた、後継者争い(お由羅騒動)に父親が連座して島流しにされたため、大久保自身も役職を免ぜられ謹慎処分を受けました。
謹慎中は勉学に励み、友人の西郷隆盛らと「近思録」の研究会などの交流を重ね、この時のメンバーが後に精忠組となり、藩内での有力な勢力になっていきました。
お由良騒動のあと、巻き返しに成功した斉彬が藩主に就任し、その2年後の1853年5月にようやく謹慎を解かれ、復職することが出来ました。藩主になった斉彬は、積極的に幕政へ介入し、また集成館事業を興すなど斬新な政策を打ち出し、その一方では下級士族の中で見込みのあるものを積極的に登用し、1857年大久保は西郷と共に御徒目付に取り立てられました。

しかし1858年、幕府大老・井伊直弼による通商条約の締結や安政の大獄に反発した斉彬は、上洛のうえ幕政改革の勅許を引き出す計画を立てるが、7月に死去してしまいます。斉彬の死後、大久保の属する精忠組のメンバーは、脱藩して井伊直弼ら幕閣を襲撃する計画を立てますが断念、そして藩主・島津茂久の父である島津久光への接近を図りました。
1860年3月大久保は勘定方小頭格に任命され、さらに久光が兵を引きつれての上洛計画を立て始める中、1861年11月大久保は御小納戸役に任命され藩政の中枢に組み込まれました。そうして島津久光のもと、公武合体策実現のため奔走し、さらに藩政の改革に対しても手腕を振るったのです。

1863年には朝廷より幕府の将軍・家茂に対して上洛の命が降りましたが、大久保は久光の命を受けて将軍上洛阻止を図ります。そして、松平春嶽や山内容堂に対して企てに加担するよう説得を試みますが、この工作は失敗に終わります。ただこのような一連の働きにより大久保の名は藩の内外へ知れ渡ることになりました。
同年8.18の政変後、京都で一橋慶喜と有力な諸大名らによる参与会議が開催されましたが、久光と徳川慶喜が政策をめぐって対立、その後大久保は慶喜に不信感をつのらせてその後は公武合体に対して見切りをつけました。そして幕府は勅命という名のもとに諸藩と共に行った長州に対する征伐を正当化しようと試みますが、土佐藩士・坂本龍馬らの斡旋で薩長同盟を結んだこともあり、大久保をはじめとする薩摩藩では「非義の勅命は勅命に非あらず」とする姿勢を表明し、二度にわたる長州征伐の発令に対して反対の立場をとったのです。将軍・徳川家茂の死去などにより、幕府の長州征伐が失敗に終わると、西郷隆盛とともに倒幕への運動を加速させ、1867年には岩倉具視らと協力し王政復古の大号令を発令し倒幕を実現させました。

明治維新後には政界の中心人物として、版籍奉還や廃藩置県等の政策を実施し、大蔵卿に任命されたのちは地租改正に関する建議を行いました。
さらに岩倉具視羅らと共に欧米視察に行った後には、新たに内務省を設立し、実質的には首相ともいうべき内務卿を努めました。
そういった中、盟友西郷隆盛が主張する朝鮮への派遣(征韓論)に対しては反対の意見を主張し、西郷との対立が生まれてしまいます。1877年には鹿児島へ帰郷していた西郷を擁する鹿児島士族の反乱(西南戦争)が起こり、鎮圧は出来たものの、幼いころからの友を失ってしまいました。
そして1878年大久保は出勤途中を不平士族に襲われ命を失いました。その際、ロンドンタイムスには「大久保利通氏の死は日本国の不幸である」と報じられました。

維新最大の功労者で、江戸無血開城を成し遂げた『西郷隆盛』

西郷吉之助(隆盛)は薩摩(鹿児島)藩の下加治屋町に小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれました。
1854年、薩摩藩主の島津斉彬に見込まれて庭方役に抜擢、そして江戸において斉彬自らに政治の手ほどきを受ける一方、条約問題や将軍の後継として一橋慶喜の擁立に尽力しました。
しかし井伊直弼が幕府の大老に就任したことより、一橋擁立派は敗北し、失意の斉彬は鹿児島で病没(一説には久光派による暗殺ともいわれていますが)しました。

かわいがってもらった斉彬の死後、藩の実権を握った島津久光とは折り合わず、2度の島流しに遭うなど、西郷の出世は決して順風満帆なものではありませんでした。
しかしながら小松帯刀や大久保利通の尽力により1864年には赦免され、藩政に復帰した後は、緊迫する日本の政情の中で倒幕に向かって動き出し、そして土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介により長州との秘密同盟の締結に成功しました。
そして四侯会議の場を持ち、雄藩連合政権の結成を目指して様々に努力を重ねた結果、失敗に終わったものの、朝廷から武力による討幕を行うべく、薩摩及び長州藩に密勅が下されました。

しかし、これからという時に将軍の徳川慶喜が二条城にて大政奉還を打ち出し、その翌日、大政奉還は朝廷より認められてしまったのです。
振り上げたこぶしの持って行き場所が無く、その後も討幕の機会を探して、徳川家の領地を朝廷に返還などを迫ったところ、狙い通り旧幕府はこれを拒否、そしてついに鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
その戦いで勝利した東征大総督府参謀となった西郷を戴く新政府軍は、関東へのがれた幕府軍を追って進軍、江戸では江戸城総攻撃の前に勝海舟と会談の機会を持ち、江戸城を無血開城させ、いよいよ旧幕府軍の残党である彰義隊を始め、東北各地の旧幕府勢力の掃討に向かう矢先、軍事指導権を長州の大村益次郎にとって代わられてしまいました。
西郷はいったん薩摩に帰郷し、隠遁生活を送りましたが、しかし新政府側の強い要請により参議として政界に復帰し、廃藩置県の密議に賛同してその成功に一役買ったのです。
その後、岩倉使節団が米欧に派遣されると、吉之助は筆頭参議として留守政府の総理となり、1972年7月には陸軍大将および近衛都督を兼務することで、日本の軍隊の最高責任者となりました。

ただ懸案事項であった日朝国交問題が緊迫してきたため、西郷は自らが朝鮮に出向き、解決に当たりたい旨を要望し、一度は閣議で西郷を朝鮮使節として派遣することに決まったものの、岩倉使節団が帰国後に、参議の大久保利通が反対を主張し、それに岩倉や参議の木戸孝允らも賛成し辞職を表明したため、それに困った太政大臣の三条実美が急病で政務の処断が出来ないと訴え、代わりに太政大臣代理となった岩倉がさきの決定を覆し、最終的に西郷をしての使節派遣は中止としました。そのことに憤った西郷は辞職、さらに土佐の板垣退助や後藤象二郎らも同じく辞職してしまいました。

ふたたび鹿児島に戻り、私学校を設立し教育に力を注いでいましたが、私学校生徒の暴動に端を発した西南戦争において、西郷は指導者として担ぎ上げられましたが、敗北そして自刃に追い込まれたのです。
将器の才では幕末の主要人物の中で筆頭。その飾らない性格は明治天皇にも愛されたとされる一方で、「西郷どんの人望好き」(大山巌談)と評されるなど、人物評価は今なお分かれています。

土佐藩の志士集団、土佐勤王党の盟主『武市半平太』

武市半平太は1829年10月24日、土佐の白札郷士の長男として生まれました。武市家はもともと土地の豪農でしたが半平太の5代前に郷士に取り立てられ、1822年に白札(「白札」と身分は郷士だが、当主は上士に準ずる扱い)に昇格しました。
1849年には城下の新町で剣術道場を開きましたが、この道場には中岡慎太郎、岡田以蔵らも門下生として在籍し、その後の土佐勤王党の母体となりました。

1856年8月にはペリーの黒船来航によって海防警備が必要になり、藩の臨時御用という形で江戸に上り、そして鏡心明智流の桃井春蔵が主宰する士学館で剣を学びました。桃井にその人物を見込まれた半平太は皆伝を授け、塾頭となり塾の風紀を正したそうです。また江戸滞在中に、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作などと交流の機会を得ました。
1857年9月、祖母の介護のため土佐に帰国した半平太は、藩より一生二人扶持の加増を受けて土佐藩の剣術諸事世話方を命じられました。

そのような中、1859年2月将軍の後継として一橋慶喜擁立を図っていた土佐藩主・山内容堂が安政の大獄の一環として幕府大老・井伊直弼によって隠居・謹慎を命じられてしまいます。これにより藩内では幕府への反感並びに山内容堂の名誉回復に対する機運が高まったこともあり1861年には長州・薩摩の尊王攘夷派と交流し、薩長土三藩が挙藩勤王体制を整えた上で朝廷擁立運動を提案することになりました。そして坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、土佐勤王党を結成し、その規模は2年後には192名までに膨れ上がったのです。

その勢いをかって1862年には、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋を暗殺、続けて東洋派重臣を藩の人事刷新のためのクーデターにより追放し、新たに要職に就いた守旧派と共に藩政の実権を掌握、そして藩主山内容堂を奉じて京へ進出しました。京では他藩応接役として、他藩との周旋をする一方、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使派遣の朝廷工作にも尽力したのです。その間、京では天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、多くの政敵を暗殺させてもいました。
そういった活躍が認められたこともあり1863年1月には白札から上士格留守居組に命ぜられ、さらに3月には京都留守居加役にまで累進しました。

しかし1863年9月30日に起こった8.18の政変により長州藩が京を追われると、事態は一転、勤王派は急速に衰え、公武合体派が主導権を握ることになりました。それは土佐藩においても同じで、本来は公武合体派である前藩主の山内容堂の影響力が再び増すことになり、薩長和解調停案の決裁を仰ぐために帰国していた半平太は、蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたとして切腹を命じられた側近の平井収二郎らと同様、自身も逮捕・投獄され1年半の獄中闘争のあと、後に捕縛された岡田以蔵が暗殺の指示を受けたことを自白したこともあり1865年7月3日「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられました。享年36歳で、最後は誰もなし得なかった三文字の切腹を成し遂げたそうです。

半平太は桂小五郎や久坂玄瑞といった当時の一級の人物からも、非常に高く評価されており「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」とも言われました。
また、半平太が生きていれば明治政府における土佐藩の立場はもっと上がっていたといわれ、山内容堂も武市を殺したことを死ぬまで悔やみ晩年病床にて「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたそうです。

幕末維新の功績は坂本龍馬以上といわれた『中岡慎太郎』

中岡慎太郎は1838年4月13日安芸郡北川郷の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれました。中岡家で初めての男児であったので、大切に育てられたそうです。また慎太郎は3歳のころから父に読み書きを習い、4歳になると松林寺の住職に読書を、さらに7歳で片道90分の山道を歩いて漢方医・島村策吾の塾に入門し四書(論語・大学・中庸・孟子)を学びました。そして14歳のときには塾で先生に代わり講義をするほど優秀でした。さあに1854年土佐藩ではこれまで城下にしかなかった藩校を郡にも設置、慎太郎はすぐにこの藩校・田野学館に入学し、そこで藩命を受け出張してきた武市半平太と出会いました。慎太郎は武市の人格や武術に敬服し、18歳の時に武市の道場に入門し、その後江戸へ出て、武市と同じ桃井道場で剣の修行に励んでいましたが、父の病気のため帰郷、大庄屋見習いとなり、父の勧めで結婚しました。

その後、慎太郎は武市の立ち上げた土佐勤王党にも加盟、17番目に署名をしています。そんな中、安政の大獄で江戸にて謹慎中だった容堂や越前藩主松平春嶽の命が狙われているという情報が土佐に入り、容堂の身辺警護を理由に、慎太郎は1862年に再び江戸へ出ました。1863年に徒目付兼他藩応接密事係に登用され、他藩の志士たちと交渉し、国事に対する奔走が始まりました。その後いよいよ勤王党への弾圧が始まり、慎太郎にも逮捕の命令がでていると知って脱藩、そして長州に身を寄せます。そこで8.18の政変で長州に落ちてきていた三条実美と再会し、情報収集を依頼され、京に上り、京で多くの志士たちと交流しました。この頃の活動が後の薩長同盟や薩土盟約の基礎を作ったといえます。

その後禁門の変が起こり中岡慎太郎も出陣、来島又兵衛隊として主に中立売門あたりで戦ったようです。けがを負いながらも何とか長州に戻った慎太郎は、ここから薩長同盟に向けて動きだします。もともと慎太郎は脱藩後、長州藩に身を寄せ、長州藩士らとともに禁門の変にも出陣し、京を追われた三条実美らの付き人的役割でもあったため、朝敵とされた長州藩と三条実美ら公卿を何とか政治の表舞台に戻したいと考えていました。ただ薩摩藩に和解の意思があったとしても、長州藩にとって薩摩藩は会津藩と手を組み、京から長州藩を追い落とした憎き相手です。よってこの長州藩士らをどう説得し、同盟成立に向けて進めていくか、が重要になり、ここで慎太郎の周旋役としての手腕が発揮されました。このころ海軍にいた坂本龍馬を初めて知ることになりました。

数ヶ月の間、京と薩摩を行ったり来たりしながら薩長和解のため奔走した慎太郎は筋斗雲を持っている、と言われるほど、その移動距離は相当なものでした。やがて苦心の末、1867年1月21日、京の薩摩藩邸で西郷隆盛、小松帯刀、桂小五郎が会談を行い、薩長同盟が成立しました。1867年2月、土佐藩は脱藩した中岡慎太郎と坂本龍馬の罪を許し、陸援隊および海援隊を設立、中岡慎太郎は陸援隊隊長に、坂本龍馬は援隊隊長に任命されました。両隊の役割は海援隊が貿易、通商を得意としているのに対し、陸援隊は完全に武力集団でした。何のための戦闘かといえば、討幕のためです。慎太郎は「倒幕」ではなく「討幕」を主張し、第一線で活躍できる集団の設立を待ち望んでいました。この後土佐藩は、慎太郎の斡旋で薩摩藩と秘密裏に倒幕の約束を交わします。それが「薩土密約」と呼ばれるものです。そんな中、運命の1867年12月10日を迎えます。その寒い冬の日に坂本龍馬と共に近江屋で刺客に襲われその傷がもとで30歳の人生に幕を下ろしました。

薩長同盟の立役者であり、江戸幕府を倒した『坂本龍馬』

坂本龍馬は1836年1月3日、土佐の郷士・坂本長兵衛の次男として生まれました。
名前の由来については姉の乙女がつけたなど、色々言われています。また子供のころはちぢれっ毛で鼻水たれ、そして泣き虫で、寝小便癖が治らず、さらに漢学の楠山塾に入学したものの、そこでいじめに遭い、抜刀騒ぎを起こしたため退塾させられ、その後は姉の乙女が武芸や学問を教えたそうです。

そんな龍馬も1948年に日根野弁治の道場に入門し小栗流を学んで、5年間非常に熱心に修行した結果1853年には「小栗流和兵法事目録」得るに至りました。
小栗流目録を得た龍馬は、剣術修行のために、1年間の自費遊学で江戸へ出ました。江戸では、築地にある土佐の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流創始者千葉周作の弟で千葉定吉の桶町千葉道場の門人となりました。
その間、6月3日にペリー率いる黒船が浦賀沖に来航し、自費遊学中の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任に就いたそうです。

1860年3月「桜田門外の変」が起きたころ、龍馬は江戸での剣術修行を終え帰郷、そこで
武市半平太を中心とする土佐勤王党結成されたのを聞き入党、龍馬は9番目に血判署名しました。そこには後に龍馬と共に活躍することになる中岡慎太郎もいました。
ただ勤王党結成後しばらくした後、武市と決別し脱藩しました。
脱藩後、龍馬は江戸へ出て千葉道場の世話になりました。そのころの龍馬は尊王攘夷の考え方に凝り固まっていたため、開国派の勝海舟を切ろうと千葉重太郎と共に乗り込みましたが、勝の世界観に感動し、その場で勝の弟子となりました。この出会いが後の龍馬の人生に大きく影響を及ぼすことになるのです。

1863年、「8月18日の政変」がおこり、長州藩は都を追われました。それに伴い、土佐藩でも山内容堂が土佐勤王党を弾圧、そして武市を含めた土佐勤王党の党員が多数捕縛され、ここに土佐勤王党は壊滅、そして武市も後日切腹となりました。
ただ1864年の池田屋事件の際に、同じ土佐出身で龍馬が塾頭を務める「神戸海軍塾」の塾生・望月亀弥太や北添詰馬らが参加していたため、神戸海軍塾は閉鎖、そして勝は蟄居・謹慎処分を受け、龍馬は居場所を失い、勝が事前に根回しをしてくれていた薩摩藩邸に入ることになりました。
ここで龍馬は西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らに対し、私設海軍を作るための融資話を持ちかけ、薩摩の船を一隻借りうけることに成功、これにより海運業を長崎にて開始しました。これが「海援隊」の始まりとなります。
またこの頃龍馬は同じ土佐浪士、中岡慎太郎らと図り、摩藩邸において「薩長同盟」を成立させ、第二次長州征伐で苦しんでいる長州を薩摩と共に支援し、長州の勝利に貢献しました。

その後、薩摩・長州が武力を使って幕府を倒そうとしていることを察した龍馬は、土佐の後藤象二郎と共に「大政奉還」を画策し1867年10月に時の将軍・徳川慶喜をしての大政奉還の宣言にこぎつけました。ただ政権を返上された朝廷は困惑しましたが龍馬は早速、新政権の準備を始め、後の5箇条のご誓文や日本国憲法にも通ずる「船中八策」を作成、また新政権人事についても提案しました。その人事案には龍馬の名前は無く、西郷から「坂本さぁ、お前さぁの名がないようでごわすが、これはどぎゃんこつでしょう?」と聞かれた龍馬は「そうさなぁ・・・世界の海援隊でもやりましょうか」と答えたといいます。
そんな龍馬にもついに最後の日が来ました。近江屋で中岡慎太郎とともに殺されたのです。実行犯は、京都見廻組のものだという説が有力ですが、真相はいまだ闇の中です。

戊辰戦争勝利の立役者、日本陸軍創始者の『大村益次郎』

村田蔵六こと大村益次郎は、1824年5月30日周防の鋳銭司村に住む医師・村田孝益の子として誕生しました。
さらに蔵六は、19歳で梅田幽斎に蘭学を,さらに翌年には豊後の広瀬淡窓に漢籍を学びました。そして23歳のときには、大坂の緒方洪庵が主宰する適塾に入り、蘭学並びに医学の習得に励みました。適塾では成績が極めて優秀だった蔵六は、塾長を務めるまでになりました。適塾にいる間、長崎へも足をのばし、当時名医といわれた奥山静叔からも知識を学んだぞうです。

27歳になった蔵六は父母を養うために帰郷、そして医療所を開業しましたが、持ち前の愛想のなさでお客も近寄らず儲けにならなかったため、宇和島藩からの誘いを受けて西洋兵書の翻訳や軍艦製造などを指導することになりました。
1856年に宇和島を離れ、江戸に出ることにした蔵六は、自身で鳩居堂を開塾し,さらに幕府蕃書調所教授手伝を経て講武所教授に就きました。
この間にヘボンより英語を学び江戸での名声を益々得るようになったのです。
そんな蔵六に関するうわさを耳にした長州藩では、さっそく1860年に蔵六に対して、藩への出仕を命じ、蔵六はその命を受けて長州へ帰藩し、兵学を教える傍ら、藩の兵制改革にも乗り出しました。

月日が流れ、1866年第二次長州征伐のおりには、長州藩の石見口の総参謀として幕府軍を撃破し、長州の危機を救いました。さらにその後戊辰戦争の際には、討幕軍として上洛し、維新政府の軍防事務局判事加勢の任務を命じられ,軍政事務を担当、そのまま江戸へ出て、上野の寛永寺に籠る彰義隊を江戸に戦火が及ばないように鎮圧し、そして奥羽・北越の平定作戦にも携わることになりました。蔵六の軍略は、総合的な視点で戦局を捉え,戦う前から必勝の成算をもったものでした。あるとき薩摩の西郷は蔵六の軍が進まないのをみて、自身の部下がすすめるまま兵を率いて東上し戦地を平定をしたい旨申し出たところ、蔵六は西郷を諫め、かつ西郷の軍が青森に到着するより前に五稜郭を陥落させることに成功しました。西郷は、蔵六の見立てに大変感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま蔵六に遭わずに帰郷しました。

蔵六はその後、軍務官副知事となり箱館を鎮定し、ここに戊辰戦争は終結を迎えることになりました。
蔵六は、その功により永世禄1500石を受け、1869年には兵部大輔へと累進したのです。
さらに政府軍の軍制を一新するために、陸軍はフランスそして海軍はイギリスにならうように決め、そして藩兵を解隊し、一般人の帯刀を禁止、さらに徴兵制度の採用 などを建白しました。
ただこれがもとで反対派士族から狙われることになり、明治2年9月4日京阪地方旅行中に反対派士族8人から襲われ、その怪我がもとでこの世を去ることになったのです。

さてここで蔵六のキャラクターを示すエピソードとして有名な話をひとつ。
蔵六が郷里で医療所を開いていたころ、夏の暑い日に、通りすがりの農夫から「いや~今日も暑いね~」と声をかけられたところ、蔵六は「夏は暑いものです」とひとことぴしゃりと返したそうです。この調子では医療所にお客は来ないですね。
また蔵六は1851年に、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚しましたが、ただ度重なる単身赴任もあり、妻との距離は埋まらず、妻は度々ヒステリーを起こしていたそうです。そんな時、蔵六は脱兎のごとく家をでて、妻のヒステリーが治まるまで近くの畑に隠れていたそうです。蔵六も妻には勝てなかったのですね。

明治維新の元勲、「維新の三傑」のひとりである『木戸孝允』

桂小五郎こと木戸孝允は1833年萩の長州藩医・和田昌景の長男として生まれました。
7歳で生家の向かいにある桂家の末期養子となり、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ましたが、その翌年に桂家の養母も亡くなったため、生家に戻り両親の元で成長しました。

小五郎は10代のころ、長州藩主である毛利敬親による親試で褒賞を受け、長州藩の若き俊英として周囲から期待されていました。
吉田松陰との出会いは1849年藩校・明倫館で山鹿流兵学教授であった松陰に兵学を学んだときです。松陰に「事をなすの才あり」と評され、その時から松下村塾の門下生ではありませんでしたが、松陰に対し、門人の礼をもって接するようになりました。

1852年に、剣術修行として江戸へ留学。江戸において江戸三大道場のひとつ、「力の斎藤」といわれた斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流の免許皆伝を得て、入門一年にして塾頭となりました。藩命による帰国までの5年間、練兵館の塾頭を務めあげ、江戸にて剣豪の名を響かせました。練兵館塾頭を務めながらも、江戸においてたくさんの志士たちと交わり、長州藩における尊攘派のリーダーへ成長していきました。

1863年5月、藩命により江戸から京都に入り、そこで久坂玄瑞らと正藩合一による大政奉還並びに新国家建設を目指す活動を行った。そのようなことから長州藩は京において中央政界を主導する立場になっていたが、「8月18日の政変」で京都から追いおとされ、翌年からは小五郎は再度上洛し地下に潜りつつ長州藩の名誉回復に励むことになりました。
そんな中、かの有名な池田屋事件が起きました。小五郎も池田屋での会合に出席を予定しており、会場へは一番早くに到着しましたが、まだ同志は誰も集まっておらず、近くの対馬藩邸で用事を済ましていました。その際に池田屋が新撰組に襲撃され、小五郎は運良く難を逃れることが出来たのです。
池田屋事件は、8月18日の政変以降、京都での失地回復のために、挙兵を望んでいた長州藩の急進派が望む展開となり、禁門の変を引き起こすに至りましたが、あえなく敗北。しかし小五郎はその後も京に潜伏し続け、相変わらず情報収集に励んでいたが、同志からの要望にこたえ長州へ帰郷しました。

その後、坂本龍馬らの斡旋により、薩長同盟を締結することに成功。翌年の第二次征長戦では近代兵器を駆使し幕府軍を撃退し、その後大政奉還を経て、長州藩は名誉回復することが出来ました。さらに薩長中心の勢力により武力で幕府を倒し、新政府の樹立に貢献したのです。
木戸孝允と名前を変えた小五郎は、 新政府の中で総裁局顧問、外国事務係、参与に任じられ、さらに「五箇条の御誓文」の起草にも参画し、そして薩摩の大久保らと共に版籍奉還に力を注ぎました。続いて1871年には、参議となり、政府の主な要職を薩長の人材で独占し、廃藩置県の実施に尽力しました。
同年9月には、岩倉使節団の副使として欧米を視察に赴くなどした後、大久保による独裁体制に政局に不満を抱くようになり、長年の心労で心の病も手伝って政府の中枢から遠ざかっていきました。
明治10年西南戦争が起こっている中、病床へ駆けつけた大久保の手を握り「西郷、いいかげんにせんか」と発したのを最後にこの世を去りました。

動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、とうたわれた『高杉晋作』

高杉晋作は1839年8月20日、萩城下の菊屋横丁に住む長州藩士・高杉小忠太の長男として生を受けました。晋作が生まれた高杉家は毛利元就の時代からの家臣であり、代々藩内で要職を任されている家系で、晋作も高杉家の長男として大事に育てられました。
1846年、晋作が8歳の時に寺子屋・吉松塾に入塾、そこで後に晋作と共に松下村塾の双璧といわれることになる久坂玄瑞と初めて出会いました。
1852年には藩校の明倫館へ、そして1857年には久坂玄瑞に誘われ「松下村塾」に入塾し、そこで生涯の師となる吉田松陰と運命的な出会いをしました。
ペリーの黒船艦隊に乗り込みアメリカへの密航を企てたため、投獄されていた松陰を、晋作の家族は快く思わず、出来るだけ松陰へは近づけまいとしていましたが、逆に晋作は松陰の教えに強く感化され、松陰の下で必死に勉強し、高杉晋作という人間を確立させていきました。

その後、藩命にて江戸へ遊学し、昌平坂学問所などで学んでいる際、松陰は間部詮勝要撃計画の罪により、江戸に移され再度投獄されていまいます。そこで晋作は松陰の世話をしながら師との交わりをますます益々深めました。
1859年、藩命により萩への帰郷を命じられた晋作は、後ろ髪を引かれる思いで江戸を出発しましたが、その10日後に松陰の死罪が決定、その日のうちに刑が執行されました。
晋作は師・松陰を殺した幕府に激しい憤りを感じ、倒幕への決意を固め、その際の怒りを1859年11月26日に、長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と表しています。

その後、1862年5月に晋作は藩命を受け、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、そこで列強の食い物にされている清の惨状を目の当たりにした晋作は、このままでは日本も同じ目に遭うと危惧し、帰国後の12月12日に同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ち、1863年5月10日には関門海峡において外国船砲撃など、尊王攘夷の志士として過激な行動に走っていきました。
また同じ時期、廻船問屋の白石正一郎邸において、晋作の代名詞となる、身分に因らない軍隊・奇兵隊を結成し、初代総督となりました。

しかし、1864年8月、さきに砲撃を受けた報復としてイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し砲台を占拠、さらに同年12月には、幕府を中心とした第一次長州征伐により、長州藩内で俗論(佐幕)派が勢いを盛り返し、晋作を含む尊王攘夷派が危機に陥る中、功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」との言葉を残し、伊藤俊輔が率いる力士隊、石川小五郎が率いる遊撃隊らと共に挙兵、その後奇兵隊も加わり、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排して藩論を再び倒幕に統一しました。

1866年1月、桂小五郎らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との薩長同眼を締結、1866年6月の第二次長州征伐では海軍総督として、周防大島を奪還、その勢いのまま小倉城を落とす活躍をみせました。
一方、遠征中に将軍徳川家茂などにより戦意喪失の幕府軍は敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜、その後1867年11月に大政奉還となりました。
ただ戦い続けた晋作の身体は、肺結核に冒されており、療養に努めるも、1867年4月14日深夜に辞世の区「おもしろきこと無きこの世を面白く」を残して27歳の短い一生を終えました。

幕末に多くの人材を輩出する松下村塾を主宰した『吉田松陰』

明治維新のために活躍する多くの人物を輩出した松下村塾の主宰者である吉田松陰。ここでは教育者として不世出である吉田松陰という人物の生い立ちをご説明します。

吉田松陰は1830年に長州藩士・杉百合之助の次男として生を受けました。松陰は5歳で叔父である吉田大助の養子に迎えられ、家業である「山鹿流兵学師範」を継ぎ、幼くして藩校である明倫館の教授見習いになるほど優秀な人物であり、さらにはすでに11歳にして長州藩主の前で講義をしていたそうです。
松陰は、兵学者としての学問に精を出しながらも、他方では江戸や長崎などの諸国を巡り、また江戸への留学などによって、時代の動きを感じとると共に日本の現状を憂い、どうすれば日本を欧米列国に伍する国家にすることができるのかを考えていました。

そんな暮らしをしている中、1853年ペリー率いる黒船が来航、当時の日本は鎖国をしており、この黒船は平和な世の中に大きな衝撃与えることになりました。松陰は、これを西洋文明を学ぶチャンスだと考え、見つかったら死罪になる危険を顧みず、門弟である金子重之助と共に伊豆の下田沖に停泊中の戦艦に密航し、アメリカへ行こうとしました。
しかしながら、松陰たちは乗船を拒否されました。というのも、ペリーは死を恐れず自身の信念に沿った二人の行動に心を打たれながらも、幕府との交渉で障害になることを考えたからです。

結果、松陰らの身柄は幕府に引き渡され、牢獄に入れられることになりました。その後、長州の野山獄に移されましたが、獄中にあっても松陰の志はくじけることがなく、1ヶ月間に平均40~50冊の本を読み、そして他の囚人へ孟子の講義を行うなど精力的に過ごしました。また一時期、野山獄を出て実家の杉家に謹慎していた際、近隣の若者たちを集めて教育を行いました。これが松下村塾といわれるものです。
松下村塾では、塾生たちに読書をすすめる一方、行動することに重きを置くことを教え、さらにそれぞれの個性を重視する指導を行いました。松陰は多くの人から慕われましたが、「学術不純にして人心をまどわす」という理由から再度野山獄、そして江戸へと送られてしまいました。そのため松下村塾は、教師が不在となり、2年余で閉鎖することになってしまいましたが、松陰は獄中においても、塾生に手紙をもって志を継承するよう説き続けました。
そして1859年、ついに29歳の志なかばにして刑場のつゆと消えてしまいました。
その生涯は一貫して行動を重視し、困難があってもへこたれない不屈の精神を持ったものでした。
彼の考えは、松下村塾での教育や遺書である留魂録を通 じて、塾生たちに引き継がれ、高杉晋作や久坂玄瑞など幕末に活躍する人物たちに大きな影響を与えました。

ここで吉田松陰の逸話をひとつ、松下村塾の門下生であった高杉晋作と久坂玄瑞は幼なじみだった。しかしながら、久坂玄瑞が秀才であったのに対し、晋作は非凡な才能を持ちながらも学問が未熟でかつひとりよがりだった。松陰はその晋作の欠点を見抜いて、彼のライバルである久坂を事あるごとに褒めることにより、晋作の負けず嫌いの心をあおって学業に力を入れさせ、その才能を開花させることに成功した。これは褒めて伸びる人間と、逆にライバル心を刺激して伸びる人間とを松陰はその優れた眼で見抜いていたということです。