武勇に秀で、薩長から鬼の官兵衛と恐れられた『佐川官兵衛』

佐川官兵衛は1831年9月、会津藩で代々家禄300石を受ける武門名誉な家柄である物頭・佐川幸右衛門直道の子として、若松城下に生まれました。
官兵衛は幼いころより勇敢活発でかつ武術にも秀で、1854年の江戸詰のおり、本郷大火の際に、幕府の火消と刃傷沙汰におよび、2人を斬り捨てたうえ、その他多数の者に傷を負わせてしまいました。当時の火消には、各組に旗本の武芸者が2人ずつ配置されていて、それらを斬った事は重大で、示談にはなったもののただちに謹慎・帰郷を命じられるということもありました。
1862年に会津藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、官兵衛も藩主に従い上洛、そして1864年には藩士の子弟で別撰隊が組織され、その中に官兵衛も選ばれ京都市中の警護に
あたり、このころから「鬼佐川」と呼ばれ恐れられるようになりました。

その後、1867年10月に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、容保も6年間勤め上げた京都守護職を退いて、慶喜とともに大坂に下ったので、官兵衛もこれに従いました。
翌1868年正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発、官兵衛は会津の林砲兵隊と共に奮戦、右眼を負傷するも敵に屈することなく戦いましたが、結局幕府軍は敗北し、官兵衛は容保と共に江戸に退き、そして3月には若松へ帰郷しました。

新政府軍は江戸城を無血開城させたのち、上野戦争・宇都宮攻略等を経て、会津まで攻め込んできました。官兵衛は越後口の防禦を任され、精鋭の朱雀四番隊長として越後に向かい、長岡藩総督・河井継之助と共闘し、新政府軍の参謀である長州藩の山県有朋及び薩摩藩の黒田清隆らによる長岡城奪取の計画を阻止し、さらに長岡南方の朝日山を占領するも、新政府軍によって長岡城は奪われてしまいました。
しかし官兵衛はその後も獅子奮迅の働きを見せ、河井らと共に再度長岡城を奪い返すが、数にものを言わせた新政府軍の攻撃に対して、新発田藩が降伏、それに伴い新潟港も敵に奪われ、長岡城はまたもや再び敵の手に落ちました。
その後、容保に呼び戻され会津に引き上げた官兵衛は若年寄に任命され若松城の守りにあたることとなり、間もなく家老に抜擢されましたが、このとき若松城はすでに新政府軍に囲まれており、官兵衛含む会津藩は善戦したものの、ついに9月26日容保は降伏を決意し会津戦争は終結を迎えました。

官兵衛は会津藩士らとともに、下北半島へ追放され、謹慎生活を送っていましたが、1873年薩摩の西郷が唱えた征韓論が否決されると、諸国の不平士族の動きが活発になり、世間は騒然としてきました。
そんな中、川路大警視は巡査を旧会津藩士の中から募集を掛け、それに対して官兵衛は態度を決めかねていましたが、再三にわたっての説得や官兵衛の子弟からの要望もあり、遂に意を決して東京守護巡査になりました。

1877年鹿児島にて西南戦争が起きると、政府は農民主体の官軍では心もとないと考え、麹町の警察署長だった官兵衛に西南戦争へ参戦するよう命じました。官兵衛は遠征軍総督警
視の補佐として巡査隊を率いて現地入り、状況を分析した結果、すぐにでも進撃するべきとの決断を下し、7時間にわたる死闘を展開し、最後は壮烈なる戦死を遂げました。
このときの官兵衛は「佐川官兵衛」と銘うった政宗の刀を携え、警視庁の記章に「勝軍」の二字を書いた指揮旗のみを持ち、他の品物は一切身に着けず死を覚悟した進撃であったと伝えられています。