厳しい局中法度で新撰組の鬼の副長と呼ばれた『土方歳三』

土方歳三は1835年5月31日、武蔵国多摩郡石田村で古くからの豪農である土方家の 6人姉妹の末っ子として生まれました。しかし父は出生前、母も6歳の時に亡くなったため、伯父夫婦に育てられています。
1846年11歳の歳三は、江戸にある伊藤松坂屋に奉公に出されたが、番頭と喧嘩をして、9里ある夜道を、1人で石田村まで逃げ帰り、1852年17歳のときには再び大伝馬町の呉服屋に奉公に出ましたが、奉公先の女中と恋愛沙汰をおこして暇を出されました。

その後は実家の「石田散薬」を売りながら、各地の剣道道場に出向き、そこで試合を挑んで修行を積んでいましたが、後に新撰組の井上源三郎の兄の勧めで、天然理心流の試衛館入門し、ここで近藤勇や沖田総司らと運命的な出会いを果たしました。
1863年2月に運命の転機が訪れます。14代将軍・徳川家茂の上洛に伴う警護のため募集された浪士組に参加し、近藤勇らと共に上洛することになりました。

そして、浪士組は京において紆余曲折の末、会津藩お預かりの新撰組となり、局長の近藤のもと、副長に就任しその右腕として権力を握りました。また土方は組織造りが上手く、実質的な指揮・命令はほとんども土方が発していました。
土方を語る上でのエピソードとして、土方は厳しい局中法度を制定し、もし隊士が背いた場合は、それが山南敬助のような幹部でも容赦はせず切腹を命じました、また不逞浪士に対しては、他の隊士が震えあがるほどの苛酷な拷問を行うなど、非情な人物として怖がられていたそうです。
その一方、剣術稽古においてはいつも胴を着け、汗を流して指導をしていたそうで、晩年になると若い隊士を度々食事に連れだしたり、また相談にのってやることもしばしばだったといわれています。

さてそうした中、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を表明、その後1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発した際には銃撃により負傷した近藤勇に替わって指揮をとるものの敗戦し、新選組は幕府軍と共に大坂から江戸へと戻って行きました。
3月に甲陽鎮撫隊として甲州に向かうも敗れてしまい、長年共に戦ってきた永倉新八や原田左之助らと別れ、近藤と共に下総・流山で新撰組の再起を図ろうとしましたが、新政府軍に包囲され、近藤は投降、一方で土方は隊士達を連れて流山を脱出し、隊を斎藤一に託し、自らは江戸へ戻って、近藤の助命嘆願のため走り回るが、江戸城が無血開城となり、やむなく旧幕府軍に合流し、島田魁ら数人の新撰組隊士を引き連れて宇都宮そして会津へと転戦していきました。

その後の函館戦争において、北海道に上陸した幕府軍は大鳥圭介隊と土方隊に分かれて箱館をめざし五稜郭を無血開城させました。続いて松前城を攻略するなど順調に戦闘を進めていきましたが、ついに新政府軍も北海道へ上陸し、幕府軍に対する総攻撃が始まり、幕府軍の敗戦が濃厚になってきた1869年5月11日、土方は一人で敵地に飛び込み、腹部に銃弾を受けて戦死しました。35歳の若さでした。
土方は残存する写真でもわかりますが、八木家の子孫から次のような言い伝えが残っています。「土方は役者のような男だと父がよく言いました。真っ黒い髪で、これがふさふさとしていて、眼がパッチリして引き締まった顔でした。むっつりしていてあまりものを言いません。近藤とはひとつ違いだとの事ですが、3つ4つは若く見えました。」(八木為三郎老人の談)