官軍に抗する桑名藩雷神隊の隊長をつとめた『立見尚文』

立見尚文は1845年7月19日、桑名藩士である町田伝太夫の三男として生まれ、1849年に立見家に養子として迎えられました。
藩校・立教館に入学すると12歳で素読に合格、剣術や馬術、舞いにも秀でていたため、将来を嘱望されていたそうです。
1861年には桑名藩主・松平定敬の小姓になって江戸へ、そして1861年には定敬が幕府より京都所司代を拝命すると、立見は定敬に従って上洛し、幕末の京都を体感しました。
また幕府による第1次長州戦争の際には軍事視察ということで長州へ出向いています。

その後、15代将軍・徳川慶喜により大政奉還が行われ、慶喜の討薩に端を発した1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が敗北してしまい、慶喜は定敬らを引き連れ江戸へ逃げ帰り、その際桑名藩兵は置き去りにされてしまいました。
なんとか江戸へ戻った立見ら桑名藩兵は、旧幕府軍との協力し、立見の指揮のもと宇都宮城を落とすことに成功、その後定敬が越後の柏崎にいることがわかると、桑名軍を指揮して柏崎へ向かいました。そこで桑名軍は三隊に再編成され、立見は雷神隊の隊長に選出されました。桑名軍は越後・会津・米沢と転戦し、その間の新政府軍との戦いにおいて立見は尋常ではない戦闘指揮の才能を発揮し、新政府軍から「桑名に立見あり」と恐れられる存在になりました。しかし少ない味方に対して敵は大多数であり、撤退を重ねたのち、ここを死に場所と定めた庄内で、庄内藩が降伏したこともあり、桑名軍は3隊総意のもとで降伏するに至りました。

時は流れて1873年4月、ようやく謹慎が解かれた立見は司法省へ入省、その後1877年に起こった西南戦争の際、新政府は在来の軍以外に勅撰旅団を編成することに決め、当時高知裁判所所長代理で徳島支庁に勤務していた立見に白羽の矢を立てました。そして立見は大隊長・少佐で明治陸軍入りし、西南戦争最後の局面において、城山での正面攻撃を任され、その戦いに決着をつける働きをしました。
さらに1894年の日清戦争では松山の第十旅団長として朝鮮半島へ出兵、立見は地形や敵情を冷静に観察し、様々な場面に沿った最適な戦術及び用兵を立てる戦術眼や、相手が根をあげるまで粘り強く戦う意志と度胸など戊辰戦争を戦い抜いた男としての貫録を見せつけ、この時の功績により男爵の爵位を授けられました。

さらに1904年の日露戦争でも、当時青森の第8師団の師団長であった立見は、日露戦争の中でも激戦とされる黒溝台会戦で活躍し、日本の勝利に大きく貢献しました。
当時の政権は薩長閥で占められ、戊辰戦争で賊軍であった桑名出身者に対してはどのようにがんばっても高い評価は与えられませんでした。しかし、日露戦争での輝かしい功績により、立見は大将に昇進することが出来ました。このことは立見自身の実力が並はずれたものであることの証といえます。

そんな立見も1907年3月6日に東京で最後の日を迎えました。その葬儀には、明治天皇から供花料も寄せられ、また長州の山県有朋元帥や薩摩の大山巌元帥も参列し、深く頭をさげたといわれています。