動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、とうたわれた『高杉晋作』

高杉晋作は1839年8月20日、萩城下の菊屋横丁に住む長州藩士・高杉小忠太の長男として生を受けました。晋作が生まれた高杉家は毛利元就の時代からの家臣であり、代々藩内で要職を任されている家系で、晋作も高杉家の長男として大事に育てられました。
1846年、晋作が8歳の時に寺子屋・吉松塾に入塾、そこで後に晋作と共に松下村塾の双璧といわれることになる久坂玄瑞と初めて出会いました。
1852年には藩校の明倫館へ、そして1857年には久坂玄瑞に誘われ「松下村塾」に入塾し、そこで生涯の師となる吉田松陰と運命的な出会いをしました。
ペリーの黒船艦隊に乗り込みアメリカへの密航を企てたため、投獄されていた松陰を、晋作の家族は快く思わず、出来るだけ松陰へは近づけまいとしていましたが、逆に晋作は松陰の教えに強く感化され、松陰の下で必死に勉強し、高杉晋作という人間を確立させていきました。

その後、藩命にて江戸へ遊学し、昌平坂学問所などで学んでいる際、松陰は間部詮勝要撃計画の罪により、江戸に移され再度投獄されていまいます。そこで晋作は松陰の世話をしながら師との交わりをますます益々深めました。
1859年、藩命により萩への帰郷を命じられた晋作は、後ろ髪を引かれる思いで江戸を出発しましたが、その10日後に松陰の死罪が決定、その日のうちに刑が執行されました。
晋作は師・松陰を殺した幕府に激しい憤りを感じ、倒幕への決意を固め、その際の怒りを1859年11月26日に、長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と表しています。

その後、1862年5月に晋作は藩命を受け、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、そこで列強の食い物にされている清の惨状を目の当たりにした晋作は、このままでは日本も同じ目に遭うと危惧し、帰国後の12月12日に同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ち、1863年5月10日には関門海峡において外国船砲撃など、尊王攘夷の志士として過激な行動に走っていきました。
また同じ時期、廻船問屋の白石正一郎邸において、晋作の代名詞となる、身分に因らない軍隊・奇兵隊を結成し、初代総督となりました。

しかし、1864年8月、さきに砲撃を受けた報復としてイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し砲台を占拠、さらに同年12月には、幕府を中心とした第一次長州征伐により、長州藩内で俗論(佐幕)派が勢いを盛り返し、晋作を含む尊王攘夷派が危機に陥る中、功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」との言葉を残し、伊藤俊輔が率いる力士隊、石川小五郎が率いる遊撃隊らと共に挙兵、その後奇兵隊も加わり、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排して藩論を再び倒幕に統一しました。

1866年1月、桂小五郎らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との薩長同眼を締結、1866年6月の第二次長州征伐では海軍総督として、周防大島を奪還、その勢いのまま小倉城を落とす活躍をみせました。
一方、遠征中に将軍徳川家茂などにより戦意喪失の幕府軍は敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜、その後1867年11月に大政奉還となりました。
ただ戦い続けた晋作の身体は、肺結核に冒されており、療養に努めるも、1867年4月14日深夜に辞世の区「おもしろきこと無きこの世を面白く」を残して27歳の短い一生を終えました。