薩長同盟の立役者であり、江戸幕府を倒した『坂本龍馬』

坂本龍馬は1836年1月3日、土佐の郷士・坂本長兵衛の次男として生まれました。
名前の由来については姉の乙女がつけたなど、色々言われています。また子供のころはちぢれっ毛で鼻水たれ、そして泣き虫で、寝小便癖が治らず、さらに漢学の楠山塾に入学したものの、そこでいじめに遭い、抜刀騒ぎを起こしたため退塾させられ、その後は姉の乙女が武芸や学問を教えたそうです。

そんな龍馬も1948年に日根野弁治の道場に入門し小栗流を学んで、5年間非常に熱心に修行した結果1853年には「小栗流和兵法事目録」得るに至りました。
小栗流目録を得た龍馬は、剣術修行のために、1年間の自費遊学で江戸へ出ました。江戸では、築地にある土佐の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流創始者千葉周作の弟で千葉定吉の桶町千葉道場の門人となりました。
その間、6月3日にペリー率いる黒船が浦賀沖に来航し、自費遊学中の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任に就いたそうです。

1860年3月「桜田門外の変」が起きたころ、龍馬は江戸での剣術修行を終え帰郷、そこで
武市半平太を中心とする土佐勤王党結成されたのを聞き入党、龍馬は9番目に血判署名しました。そこには後に龍馬と共に活躍することになる中岡慎太郎もいました。
ただ勤王党結成後しばらくした後、武市と決別し脱藩しました。
脱藩後、龍馬は江戸へ出て千葉道場の世話になりました。そのころの龍馬は尊王攘夷の考え方に凝り固まっていたため、開国派の勝海舟を切ろうと千葉重太郎と共に乗り込みましたが、勝の世界観に感動し、その場で勝の弟子となりました。この出会いが後の龍馬の人生に大きく影響を及ぼすことになるのです。

1863年、「8月18日の政変」がおこり、長州藩は都を追われました。それに伴い、土佐藩でも山内容堂が土佐勤王党を弾圧、そして武市を含めた土佐勤王党の党員が多数捕縛され、ここに土佐勤王党は壊滅、そして武市も後日切腹となりました。
ただ1864年の池田屋事件の際に、同じ土佐出身で龍馬が塾頭を務める「神戸海軍塾」の塾生・望月亀弥太や北添詰馬らが参加していたため、神戸海軍塾は閉鎖、そして勝は蟄居・謹慎処分を受け、龍馬は居場所を失い、勝が事前に根回しをしてくれていた薩摩藩邸に入ることになりました。
ここで龍馬は西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らに対し、私設海軍を作るための融資話を持ちかけ、薩摩の船を一隻借りうけることに成功、これにより海運業を長崎にて開始しました。これが「海援隊」の始まりとなります。
またこの頃龍馬は同じ土佐浪士、中岡慎太郎らと図り、摩藩邸において「薩長同盟」を成立させ、第二次長州征伐で苦しんでいる長州を薩摩と共に支援し、長州の勝利に貢献しました。

その後、薩摩・長州が武力を使って幕府を倒そうとしていることを察した龍馬は、土佐の後藤象二郎と共に「大政奉還」を画策し1867年10月に時の将軍・徳川慶喜をしての大政奉還の宣言にこぎつけました。ただ政権を返上された朝廷は困惑しましたが龍馬は早速、新政権の準備を始め、後の5箇条のご誓文や日本国憲法にも通ずる「船中八策」を作成、また新政権人事についても提案しました。その人事案には龍馬の名前は無く、西郷から「坂本さぁ、お前さぁの名がないようでごわすが、これはどぎゃんこつでしょう?」と聞かれた龍馬は「そうさなぁ・・・世界の海援隊でもやりましょうか」と答えたといいます。
そんな龍馬にもついに最後の日が来ました。近江屋で中岡慎太郎とともに殺されたのです。実行犯は、京都見廻組のものだという説が有力ですが、真相はいまだ闇の中です。