維新最大の功労者で、江戸無血開城を成し遂げた『西郷隆盛』

西郷吉之助(隆盛)は薩摩(鹿児島)藩の下加治屋町に小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれました。
1854年、薩摩藩主の島津斉彬に見込まれて庭方役に抜擢、そして江戸において斉彬自らに政治の手ほどきを受ける一方、条約問題や将軍の後継として一橋慶喜の擁立に尽力しました。
しかし井伊直弼が幕府の大老に就任したことより、一橋擁立派は敗北し、失意の斉彬は鹿児島で病没(一説には久光派による暗殺ともいわれていますが)しました。

かわいがってもらった斉彬の死後、藩の実権を握った島津久光とは折り合わず、2度の島流しに遭うなど、西郷の出世は決して順風満帆なものではありませんでした。
しかしながら小松帯刀や大久保利通の尽力により1864年には赦免され、藩政に復帰した後は、緊迫する日本の政情の中で倒幕に向かって動き出し、そして土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介により長州との秘密同盟の締結に成功しました。
そして四侯会議の場を持ち、雄藩連合政権の結成を目指して様々に努力を重ねた結果、失敗に終わったものの、朝廷から武力による討幕を行うべく、薩摩及び長州藩に密勅が下されました。

しかし、これからという時に将軍の徳川慶喜が二条城にて大政奉還を打ち出し、その翌日、大政奉還は朝廷より認められてしまったのです。
振り上げたこぶしの持って行き場所が無く、その後も討幕の機会を探して、徳川家の領地を朝廷に返還などを迫ったところ、狙い通り旧幕府はこれを拒否、そしてついに鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
その戦いで勝利した東征大総督府参謀となった西郷を戴く新政府軍は、関東へのがれた幕府軍を追って進軍、江戸では江戸城総攻撃の前に勝海舟と会談の機会を持ち、江戸城を無血開城させ、いよいよ旧幕府軍の残党である彰義隊を始め、東北各地の旧幕府勢力の掃討に向かう矢先、軍事指導権を長州の大村益次郎にとって代わられてしまいました。
西郷はいったん薩摩に帰郷し、隠遁生活を送りましたが、しかし新政府側の強い要請により参議として政界に復帰し、廃藩置県の密議に賛同してその成功に一役買ったのです。
その後、岩倉使節団が米欧に派遣されると、吉之助は筆頭参議として留守政府の総理となり、1972年7月には陸軍大将および近衛都督を兼務することで、日本の軍隊の最高責任者となりました。

ただ懸案事項であった日朝国交問題が緊迫してきたため、西郷は自らが朝鮮に出向き、解決に当たりたい旨を要望し、一度は閣議で西郷を朝鮮使節として派遣することに決まったものの、岩倉使節団が帰国後に、参議の大久保利通が反対を主張し、それに岩倉や参議の木戸孝允らも賛成し辞職を表明したため、それに困った太政大臣の三条実美が急病で政務の処断が出来ないと訴え、代わりに太政大臣代理となった岩倉がさきの決定を覆し、最終的に西郷をしての使節派遣は中止としました。そのことに憤った西郷は辞職、さらに土佐の板垣退助や後藤象二郎らも同じく辞職してしまいました。

ふたたび鹿児島に戻り、私学校を設立し教育に力を注いでいましたが、私学校生徒の暴動に端を発した西南戦争において、西郷は指導者として担ぎ上げられましたが、敗北そして自刃に追い込まれたのです。
将器の才では幕末の主要人物の中で筆頭。その飾らない性格は明治天皇にも愛されたとされる一方で、「西郷どんの人望好き」(大山巌談)と評されるなど、人物評価は今なお分かれています。