維新後、司法卿となり司法制度の近代化に努めた『江藤新平』

江藤新平は1834年、佐賀藩の下級武士の長男として生れました。家が貧しいながらも16歳で藩校弘道館に入学し、必死に勉強しました。
弘道館教授で儒学・国学者を教える枝吉神陽が「義祭同盟」(尊王論を普及させるために作った私塾で、よく長州の松下村塾と比較されます)を結成し、そこに江藤は大隈重信や副島種臣、大木喬任、島義勇らとともに参加しました。

江藤は、下級武士の自分が志を遂げるためには、このまま藩内にいても現状を打破できないと脱藩を決意、そして京都へ向かい、長州藩の桂小五郎や伊藤博文、公卿の姉小路公知らと交流を図ると同時に京都の情勢に関しても調べ上げました。
その間2ヶ月程で、その後は佐賀へ帰国、本当であれば脱藩=死罪になるところ、前藩主・鍋島直正の温情により死罪を免れ、代わりに無期限の謹慎となりましたが、大政奉還によって情勢が変わったため、赦免されました。

そして、新政府が誕生すると、副島種臣とともに上京の命を受け、その時から政治の表舞台での江藤の飛躍が始まりました。そして、江戸の無血開城から上野戦争、さらに戊辰戦争においても活躍し、1869年には維新の功によって賞典禄 100石を賜りました。
明治維新後、政府設置の江戸鎮台の長官に属する6人の判事のうちの1人として会計局判事の任命を受け、民政、会計並びに財政や都市問題などの担当となりました。ちなみに江戸の呼称が東京になるのは江藤の献言によるものです。
その後江藤は、佐賀に一時帰郷し、準家老職に就き、藩政改革に乗り出しますが、改めて政府乞われて、東京へ戻り新国家の根本となる民法や憲法といった法令の整備に関して尽力しました。
さらに1872年には、初代司法卿に就き、参議などの多くの役職を歴任し、学制の基礎固め、四民平等や警察制度整備など近代化政策の推進を図り、特に司法制度の整備には力を入れました。

しかし、1873年10月朝鮮出兵をめぐる征韓論問題で西郷隆盛が下野すると、板垣退助や後藤象二郎らとともに下野し、そして佐賀へ帰郷しました。
帰郷後、1874年2月佐賀征韓党の首領として推され、島義勇らの憂国党と共に反乱を起こし、同年4月に斬首、その首は梟首されました。 
征韓論で対立した江藤新平との確執で知られる大久保利通は、自らの日記に「江藤醜態 笑止なり」と罵倒ともとれる言葉を江藤に対して残していますが、その大久保も4年後に不平士族によって暗殺されました。  

さてここで江藤に関する逸話をご紹介します。江藤が考えた意見書は非常に画期的でかつ民主的といわれています。その例として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という一文があります。また外交についての意見書では積極的な対外への進出を主張しているようで、1871年3月に岩倉具視へ提出したものには清をロシアとともに攻めて占領し、その後機会を見つけてロシアを追い出し、日本の都をそこに移すといった内容のことが書かれていたそうです。
また江藤が処刑された後、佐賀において「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」といわれていたそうで、参拝客が非常に多かったようです。そのため、佐賀県庁がわざわざ柵を設けて参拝を禁止したといわれています。そのためみんな仕方なく夜間に参拝していたとのことです。