日本の近代化構想の実現に奔走した、明治の父『小栗忠順』

小栗忠順は1827年、禄高2,500石の旗本・小栗忠高の子として江戸で生まれました。幼いころは頭があまり良くなく悪戯が好きな悪ガキという印象を持たれていたそうですが、成長するに従って文武に才能を発揮していきました。
8歳のころから、小栗家の屋敷内にある安積艮斎の私塾「見山楼」に入門し、そこで栗本鋤雲と知り合うことになります。また武術について、剣術は島田虎之助に師事し、その後藤川整斎の門下となって直心影流免許皆伝を得ました。また砲術は田付主計に、そして柔術は窪田助太郎に師事していました。

1843年、17歳になり登城した小栗は、文武の才能を認められ、若くして両御番に抜擢されました。しかしながら率直な物言いを周りから疎まれ、何度も官職を変えられたそうです。
1853年、ペリーの黒船が来航すると、黒船に対する詰警備役となるが、戦国時代のころから造船に関して進歩がない日本ではアメリカと同等に交渉することができず、開国の要求を受け入れざるを得ない状況を目の当たりにしたことにより、外国と積極的通商を行い、造船所を作るという発想を持つことになりました。

1855年に父・忠高が死去、家督を相続することになったのち、1860年に遣米使節の目付として渡米、ワシントン海軍工廠を見学した際にはアメリカと日本との製鉄並びに金属の加工技術の差に驚き、記念にネジを持ち帰りました。
帰国の後、遣米使節の功によって外国奉行に就任、1861年にロシア軍艦対馬占領事件が起こった際、事件の処理に当たるも、幕府の対処に対して限界を感じ、江戸に戻って老中に自身の意見を提言するが受け入れてもらえず辞任に至る。

また1862年には、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しに尽力しました。その間、駐日フランス公使と交際し、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた小栗は1863年、幕府に対し製鉄所建設案を提出、幕閣から反対を受けたが、将軍・徳川家茂に認められ1865年11月15日、横須賀製鉄所の建設が開始されました。
小栗は横須賀製鉄所の代表にレオンス・ヴェルニーを任命し、職務分掌や雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制などの経営学や人事労務管理の基礎を日本に導入しました。
さらに1862年12月に銃砲製造の責任者になると、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄の関口製造所に統合し、組織の合理化を図り、またベルギーから弾薬用火薬製造機械を購入して滝野川反射炉の一角に設置することにより日本初の西洋式火薬工場を建設しました。
併せて小栗は更なる軍事力強化を推進し、幕府陸軍をフランスから軍事顧問団を招きフランス式に変更、さらに大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品をフランスに発注しました。

一方、経済面では、1866年に関税率改訂の交渉にあたり、三都商人と連携して日本全国の商品流通を掌握しようとしました。これが後の商社設立に繋がっていきました。
そんな中1867年11月9日に将軍・徳川慶喜が大政奉還を表明、1868年1月には鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まりました。初戦に敗れた慶喜は江戸へ帰還、その後江戸城で開かれた評定では、小栗をはじめ榎本武揚、大鳥圭介らは徹底抗戦を主張しましたが、慶喜は反対し恭順してしまいました。
1868年1月15日江戸城にて御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡された小栗は上野国群馬郡権田村に移り住みましたが、1868年東山道軍の命を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により捕縛され、斬首され42歳の生涯を閉じました。