明治維新の元勲、「維新の三傑」のひとりである『木戸孝允』

桂小五郎こと木戸孝允は1833年萩の長州藩医・和田昌景の長男として生まれました。
7歳で生家の向かいにある桂家の末期養子となり、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ましたが、その翌年に桂家の養母も亡くなったため、生家に戻り両親の元で成長しました。

小五郎は10代のころ、長州藩主である毛利敬親による親試で褒賞を受け、長州藩の若き俊英として周囲から期待されていました。
吉田松陰との出会いは1849年藩校・明倫館で山鹿流兵学教授であった松陰に兵学を学んだときです。松陰に「事をなすの才あり」と評され、その時から松下村塾の門下生ではありませんでしたが、松陰に対し、門人の礼をもって接するようになりました。

1852年に、剣術修行として江戸へ留学。江戸において江戸三大道場のひとつ、「力の斎藤」といわれた斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流の免許皆伝を得て、入門一年にして塾頭となりました。藩命による帰国までの5年間、練兵館の塾頭を務めあげ、江戸にて剣豪の名を響かせました。練兵館塾頭を務めながらも、江戸においてたくさんの志士たちと交わり、長州藩における尊攘派のリーダーへ成長していきました。

1863年5月、藩命により江戸から京都に入り、そこで久坂玄瑞らと正藩合一による大政奉還並びに新国家建設を目指す活動を行った。そのようなことから長州藩は京において中央政界を主導する立場になっていたが、「8月18日の政変」で京都から追いおとされ、翌年からは小五郎は再度上洛し地下に潜りつつ長州藩の名誉回復に励むことになりました。
そんな中、かの有名な池田屋事件が起きました。小五郎も池田屋での会合に出席を予定しており、会場へは一番早くに到着しましたが、まだ同志は誰も集まっておらず、近くの対馬藩邸で用事を済ましていました。その際に池田屋が新撰組に襲撃され、小五郎は運良く難を逃れることが出来たのです。
池田屋事件は、8月18日の政変以降、京都での失地回復のために、挙兵を望んでいた長州藩の急進派が望む展開となり、禁門の変を引き起こすに至りましたが、あえなく敗北。しかし小五郎はその後も京に潜伏し続け、相変わらず情報収集に励んでいたが、同志からの要望にこたえ長州へ帰郷しました。

その後、坂本龍馬らの斡旋により、薩長同盟を締結することに成功。翌年の第二次征長戦では近代兵器を駆使し幕府軍を撃退し、その後大政奉還を経て、長州藩は名誉回復することが出来ました。さらに薩長中心の勢力により武力で幕府を倒し、新政府の樹立に貢献したのです。
木戸孝允と名前を変えた小五郎は、 新政府の中で総裁局顧問、外国事務係、参与に任じられ、さらに「五箇条の御誓文」の起草にも参画し、そして薩摩の大久保らと共に版籍奉還に力を注ぎました。続いて1871年には、参議となり、政府の主な要職を薩長の人材で独占し、廃藩置県の実施に尽力しました。
同年9月には、岩倉使節団の副使として欧米を視察に赴くなどした後、大久保による独裁体制に政局に不満を抱くようになり、長年の心労で心の病も手伝って政府の中枢から遠ざかっていきました。
明治10年西南戦争が起こっている中、病床へ駆けつけた大久保の手を握り「西郷、いいかげんにせんか」と発したのを最後にこの世を去りました。