土佐藩の志士集団、土佐勤王党の盟主『武市半平太』

武市半平太は1829年10月24日、土佐の白札郷士の長男として生まれました。武市家はもともと土地の豪農でしたが半平太の5代前に郷士に取り立てられ、1822年に白札(「白札」と身分は郷士だが、当主は上士に準ずる扱い)に昇格しました。
1849年には城下の新町で剣術道場を開きましたが、この道場には中岡慎太郎、岡田以蔵らも門下生として在籍し、その後の土佐勤王党の母体となりました。

1856年8月にはペリーの黒船来航によって海防警備が必要になり、藩の臨時御用という形で江戸に上り、そして鏡心明智流の桃井春蔵が主宰する士学館で剣を学びました。桃井にその人物を見込まれた半平太は皆伝を授け、塾頭となり塾の風紀を正したそうです。また江戸滞在中に、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作などと交流の機会を得ました。
1857年9月、祖母の介護のため土佐に帰国した半平太は、藩より一生二人扶持の加増を受けて土佐藩の剣術諸事世話方を命じられました。

そのような中、1859年2月将軍の後継として一橋慶喜擁立を図っていた土佐藩主・山内容堂が安政の大獄の一環として幕府大老・井伊直弼によって隠居・謹慎を命じられてしまいます。これにより藩内では幕府への反感並びに山内容堂の名誉回復に対する機運が高まったこともあり1861年には長州・薩摩の尊王攘夷派と交流し、薩長土三藩が挙藩勤王体制を整えた上で朝廷擁立運動を提案することになりました。そして坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、土佐勤王党を結成し、その規模は2年後には192名までに膨れ上がったのです。

その勢いをかって1862年には、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋を暗殺、続けて東洋派重臣を藩の人事刷新のためのクーデターにより追放し、新たに要職に就いた守旧派と共に藩政の実権を掌握、そして藩主山内容堂を奉じて京へ進出しました。京では他藩応接役として、他藩との周旋をする一方、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使派遣の朝廷工作にも尽力したのです。その間、京では天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、多くの政敵を暗殺させてもいました。
そういった活躍が認められたこともあり1863年1月には白札から上士格留守居組に命ぜられ、さらに3月には京都留守居加役にまで累進しました。

しかし1863年9月30日に起こった8.18の政変により長州藩が京を追われると、事態は一転、勤王派は急速に衰え、公武合体派が主導権を握ることになりました。それは土佐藩においても同じで、本来は公武合体派である前藩主の山内容堂の影響力が再び増すことになり、薩長和解調停案の決裁を仰ぐために帰国していた半平太は、蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたとして切腹を命じられた側近の平井収二郎らと同様、自身も逮捕・投獄され1年半の獄中闘争のあと、後に捕縛された岡田以蔵が暗殺の指示を受けたことを自白したこともあり1865年7月3日「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられました。享年36歳で、最後は誰もなし得なかった三文字の切腹を成し遂げたそうです。

半平太は桂小五郎や久坂玄瑞といった当時の一級の人物からも、非常に高く評価されており「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」とも言われました。
また、半平太が生きていれば明治政府における土佐藩の立場はもっと上がっていたといわれ、山内容堂も武市を殺したことを死ぬまで悔やみ晩年病床にて「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたそうです。