会津藩主、京都を警備する京都守護職をつとめた『松平容保』

1836年2月15日、江戸四谷にある尾張徳川家の分家の高須藩邸で藩主・松平義建の六男として松平容保は生まれました。
1846年12歳になった容保は会津藩・第8代藩主の容敬の養子となりましたが、容敬自身も高須藩から迎えられた養子で、容保の父とは異母兄弟であり、容保とは伯父と・甥の関係にあたりました。ちなみに容保の兄弟では長男と四男は早逝していましたが、他の兄弟はいずれも逸材で、次男は尾張徳川家、三男は石見国の浜田松平家を、五男は一橋家、七男は桑名松平家、八男は生家である高須松平藩をそれぞれ継いでいます。

さて容保は、幕府に養子縁組が認められると、江戸の和田倉門の会津藩邸に入り、最初に容敬自身から保科正之が作った会津藩の「家訓十五ヵ条」を教え込まれました。
1851年に容保は会津入りし、翌年伯父の容敬が病死に伴い、容保は18歳で第9代会津藩主の座に就くことになりました。
そして1860年に幕府の大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変の際には、水戸藩の討伐に対して反対の立場をとり、幕府と水戸藩との間を取り持った功績が認められ近左衛権中将の任命を受けています。

その後、不安定な政局の中、1862年9月24日に京都守護職に就任しました。これには当初、容保をはじめ家老の西郷頼母ら家臣ともども就任に断わりを入れていましたが、政事総裁職・松平春嶽から「家訓十五箇条」の第一条にある「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」という文言を引き合いに出され、押し切られる形で就任を決めました。
京都守護職に就任となった容保は、同年12月に会津藩兵を率いて自ら上洛し、孝明天皇に拝謁・朝廷との交渉にあたりました。その一方で配下の新撰組他を使って、この時期に上洛してきた14代将軍・徳川家茂の警護や不定浪人の取り締まりなど京都市内の治安維持にも力を注ぎました。

会津藩は幕府が主張していた公武合体派の一翼を担い、反幕府的な活動をする長州藩をはじめとした尊王攘夷派と敵対し、8.18の政変では京都での長州藩の勢力の排除に乗り出し、その働き対して孝明天皇から容保に対して宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)が内密に下賜されました。それらを容保は小さな竹筒に入れて首からかけ、死ぬまで手放すことはありませんでした。

1867年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、鳥羽・伏見の戦いが勃発、その戦いに敗れた将軍・慶喜に弟の桑名藩主・松平定敬らとともに従い、幕府軍艦にて江戸へ下りました。そして慶喜が新政府に対し恭順を表明し、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立、会津藩においても同様の対立が起こりましたが、容保は会津へ帰国し、養子の喜徳へ家督を譲って謹慎しました。