幕臣であるが広い視野を持ち、江戸無血開城に貢献した『勝海舟』

勝海舟は1823年3月12日幕府旗本・勝小吉の長男として生まれました。
10代の頃から直心影流剣術・島田虎之助に入門し剣術・禅を学びの免許皆伝を与えられており、兵学も若山勿堂から山鹿流を学んでいます。16歳の時に蘭学者・佐久間象山と知り合い、その象山から勧めもあって西洋兵学を修め、蘭学と兵学の私塾を開きました。
1853年ペリーの黒船艦隊が来航し開国を要求されると、老中首座・阿部正弘はその決断を幕府のみで決めることはせず、海防に関する意見を幕臣だけでなく諸大名から町人に至るまで広く募集し、勝も海防意見書を提出、その意見書が阿部正弘の目にとまり、その結果幕府海防掛の大久保忠寛の知遇を得たことにより念願であった幕府内での役職を得ることになりました。

その後、長崎海軍伝習所に入門、伝習所ではオランダ語がよくできた勝は教監も兼ね、長崎では約5年間過ごしました。この時期に薩摩藩主・島津斉彬と出会い、後の勝の行動に大きな影響を与えられたそうです。
1860年には幕府の遣米使節の補充員として咸臨丸にて太平洋を横断、アメリカ・サンフランシスコへの渡航へも参加しています。
帰国後は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範の役職を与えられていましたが、1862年に海軍に復帰、軍艦操練所頭取から軍艦奉行へと就任し、神戸に海軍塾を作って、薩摩や土佐の脱藩者らを塾生として迎え入れ、そしてさらに神戸海軍操練所も設立しました。
勝としては幕府の海軍ではなく「日本の海軍」の建設を目指していましたが、保守派の人間の差し金により軍艦奉行を罷免、約2年の蟄居生活を送ることになりました。勝はこの蟄居生活の時期に西郷隆盛とも初めて会っています。

1866年軍艦奉行に復帰した勝は、徳川慶喜から第二次長州征伐の停戦交渉を任され、単身宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功しましたが、慶喜が朝廷から停戦の勅命を引き出し、はしごを外された形になった勝は憤慨、御役御免を願い出て江戸に帰りました。
大政奉還後の1868年、新政府軍の東征が始まると、幕府は勝を呼び戻し陸軍総裁から軍事総裁を命じ、全権を委任された勝は幕府方の代表となりました。江戸へ迫った新政府軍・西郷隆盛との交渉の末、江戸城の無血開城を取りまとめ、江戸を戦火から救いました。
明治維新後も旧幕臣の重要な役職を歴任し、1873年には、勅使として鹿児島の島津久光を東京へ上京させ、また混乱期に意見が対立していた慶喜を明治政府に赦免させるなど精力的に活動しました。

晩年はほとんどの時期を赤坂氷川で過ごしていた勝は、政府から依頼されて「吹塵録」、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などを執筆しました。
しかしながら勝のその独特な談話、記述を理解できなかった者たちから「氷川の大法螺吹き」となじられたり、また身内の問題などから孤独な生活を送っていたそうです。
そして1899年1月19日、風呂上がりにブランデーを飲んでいたところ、脳溢血により意識不明になって死去。最期の言葉は勝らしい「コレデオシマイ」でした。