戊辰戦争勝利の立役者、日本陸軍創始者の『大村益次郎』

村田蔵六こと大村益次郎は、1824年5月30日周防の鋳銭司村に住む医師・村田孝益の子として誕生しました。
さらに蔵六は、19歳で梅田幽斎に蘭学を,さらに翌年には豊後の広瀬淡窓に漢籍を学びました。そして23歳のときには、大坂の緒方洪庵が主宰する適塾に入り、蘭学並びに医学の習得に励みました。適塾では成績が極めて優秀だった蔵六は、塾長を務めるまでになりました。適塾にいる間、長崎へも足をのばし、当時名医といわれた奥山静叔からも知識を学んだぞうです。

27歳になった蔵六は父母を養うために帰郷、そして医療所を開業しましたが、持ち前の愛想のなさでお客も近寄らず儲けにならなかったため、宇和島藩からの誘いを受けて西洋兵書の翻訳や軍艦製造などを指導することになりました。
1856年に宇和島を離れ、江戸に出ることにした蔵六は、自身で鳩居堂を開塾し,さらに幕府蕃書調所教授手伝を経て講武所教授に就きました。
この間にヘボンより英語を学び江戸での名声を益々得るようになったのです。
そんな蔵六に関するうわさを耳にした長州藩では、さっそく1860年に蔵六に対して、藩への出仕を命じ、蔵六はその命を受けて長州へ帰藩し、兵学を教える傍ら、藩の兵制改革にも乗り出しました。

月日が流れ、1866年第二次長州征伐のおりには、長州藩の石見口の総参謀として幕府軍を撃破し、長州の危機を救いました。さらにその後戊辰戦争の際には、討幕軍として上洛し、維新政府の軍防事務局判事加勢の任務を命じられ,軍政事務を担当、そのまま江戸へ出て、上野の寛永寺に籠る彰義隊を江戸に戦火が及ばないように鎮圧し、そして奥羽・北越の平定作戦にも携わることになりました。蔵六の軍略は、総合的な視点で戦局を捉え,戦う前から必勝の成算をもったものでした。あるとき薩摩の西郷は蔵六の軍が進まないのをみて、自身の部下がすすめるまま兵を率いて東上し戦地を平定をしたい旨申し出たところ、蔵六は西郷を諫め、かつ西郷の軍が青森に到着するより前に五稜郭を陥落させることに成功しました。西郷は、蔵六の見立てに大変感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま蔵六に遭わずに帰郷しました。

蔵六はその後、軍務官副知事となり箱館を鎮定し、ここに戊辰戦争は終結を迎えることになりました。
蔵六は、その功により永世禄1500石を受け、1869年には兵部大輔へと累進したのです。
さらに政府軍の軍制を一新するために、陸軍はフランスそして海軍はイギリスにならうように決め、そして藩兵を解隊し、一般人の帯刀を禁止、さらに徴兵制度の採用 などを建白しました。
ただこれがもとで反対派士族から狙われることになり、明治2年9月4日京阪地方旅行中に反対派士族8人から襲われ、その怪我がもとでこの世を去ることになったのです。

さてここで蔵六のキャラクターを示すエピソードとして有名な話をひとつ。
蔵六が郷里で医療所を開いていたころ、夏の暑い日に、通りすがりの農夫から「いや~今日も暑いね~」と声をかけられたところ、蔵六は「夏は暑いものです」とひとことぴしゃりと返したそうです。この調子では医療所にお客は来ないですね。
また蔵六は1851年に、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚しましたが、ただ度重なる単身赴任もあり、妻との距離は埋まらず、妻は度々ヒステリーを起こしていたそうです。そんな時、蔵六は脱兎のごとく家をでて、妻のヒステリーが治まるまで近くの畑に隠れていたそうです。蔵六も妻には勝てなかったのですね。

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