幕末維新の功績は坂本龍馬以上といわれた『中岡慎太郎』

中岡慎太郎は1838年4月13日安芸郡北川郷の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれました。中岡家で初めての男児であったので、大切に育てられたそうです。また慎太郎は3歳のころから父に読み書きを習い、4歳になると松林寺の住職に読書を、さらに7歳で片道90分の山道を歩いて漢方医・島村策吾の塾に入門し四書(論語・大学・中庸・孟子)を学びました。そして14歳のときには塾で先生に代わり講義をするほど優秀でした。さあに1854年土佐藩ではこれまで城下にしかなかった藩校を郡にも設置、慎太郎はすぐにこの藩校・田野学館に入学し、そこで藩命を受け出張してきた武市半平太と出会いました。慎太郎は武市の人格や武術に敬服し、18歳の時に武市の道場に入門し、その後江戸へ出て、武市と同じ桃井道場で剣の修行に励んでいましたが、父の病気のため帰郷、大庄屋見習いとなり、父の勧めで結婚しました。

その後、慎太郎は武市の立ち上げた土佐勤王党にも加盟、17番目に署名をしています。そんな中、安政の大獄で江戸にて謹慎中だった容堂や越前藩主松平春嶽の命が狙われているという情報が土佐に入り、容堂の身辺警護を理由に、慎太郎は1862年に再び江戸へ出ました。1863年に徒目付兼他藩応接密事係に登用され、他藩の志士たちと交渉し、国事に対する奔走が始まりました。その後いよいよ勤王党への弾圧が始まり、慎太郎にも逮捕の命令がでていると知って脱藩、そして長州に身を寄せます。そこで8.18の政変で長州に落ちてきていた三条実美と再会し、情報収集を依頼され、京に上り、京で多くの志士たちと交流しました。この頃の活動が後の薩長同盟や薩土盟約の基礎を作ったといえます。

その後禁門の変が起こり中岡慎太郎も出陣、来島又兵衛隊として主に中立売門あたりで戦ったようです。けがを負いながらも何とか長州に戻った慎太郎は、ここから薩長同盟に向けて動きだします。もともと慎太郎は脱藩後、長州藩に身を寄せ、長州藩士らとともに禁門の変にも出陣し、京を追われた三条実美らの付き人的役割でもあったため、朝敵とされた長州藩と三条実美ら公卿を何とか政治の表舞台に戻したいと考えていました。ただ薩摩藩に和解の意思があったとしても、長州藩にとって薩摩藩は会津藩と手を組み、京から長州藩を追い落とした憎き相手です。よってこの長州藩士らをどう説得し、同盟成立に向けて進めていくか、が重要になり、ここで慎太郎の周旋役としての手腕が発揮されました。このころ海軍にいた坂本龍馬を初めて知ることになりました。

数ヶ月の間、京と薩摩を行ったり来たりしながら薩長和解のため奔走した慎太郎は筋斗雲を持っている、と言われるほど、その移動距離は相当なものでした。やがて苦心の末、1867年1月21日、京の薩摩藩邸で西郷隆盛、小松帯刀、桂小五郎が会談を行い、薩長同盟が成立しました。1867年2月、土佐藩は脱藩した中岡慎太郎と坂本龍馬の罪を許し、陸援隊および海援隊を設立、中岡慎太郎は陸援隊隊長に、坂本龍馬は援隊隊長に任命されました。両隊の役割は海援隊が貿易、通商を得意としているのに対し、陸援隊は完全に武力集団でした。何のための戦闘かといえば、討幕のためです。慎太郎は「倒幕」ではなく「討幕」を主張し、第一線で活躍できる集団の設立を待ち望んでいました。この後土佐藩は、慎太郎の斡旋で薩摩藩と秘密裏に倒幕の約束を交わします。それが「薩土密約」と呼ばれるものです。そんな中、運命の1867年12月10日を迎えます。その寒い冬の日に坂本龍馬と共に近江屋で刺客に襲われその傷がもとで30歳の人生に幕を下ろしました。

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